「二十二社」とは?
「二十二社(にじゅうにしゃ)」とは、神社の社格の一つで、平安時代に「皇城鎮守神」として選定され、平安中期以降、国家の重大事や天変地異の時など、大事件が発生した際には朝廷より使者を遣わされ、特別の奉幣を受けた22の神社のことをいいます。
最も高い社格とされ、さらにこれら22社についても、格式の高い順に「上七社」「中七社」「下八社」に分類されています。
元々は二十二の前身である「十六社」が原点で、その後徐々に加わる形で、最終的に二十二社となりました。
そもそも律令制の時代には、国家の重大事や天変地異が発生すると「延喜式神名帳(延喜式の巻九・十に記載のある神社)」などにより奉幣を行う神社が多数定められていました。
しかしその後律令制の衰退などにより、朝廷の崇敬を受ける神社も次第に少数・特定化していくことになります。
そして醍醐天皇の治世の昌泰・延喜年間(898-923)に、まず「十六社」が定められます(898年(昌泰元年)とも)。
当初は上七社と下七社の14つの神社に、丹生社と貴布禰を加えた十六社で構成され、奉幣がしばしば行われるとともに、966年(康保3年)に制度として確立しました。
更に991年(正暦2年)、吉田・北野・広田の三社が加わり「十九社」に
994年(正暦5年)、梅宮が加わり「二十社」に
995年(長徳元年)、祇園が加わり「二十一社」に
そして後朱雀天皇治世の1039年(長暦3年)に近江の日吉社が加わり22社となり、
更に白河天皇治世の1081年(永保元年)に永例とされ、制度としての「二十二社」が確立します。
以来22の社数は固定化し、天皇の権力が著しく衰退した室町後期の1449年(宝徳元年)を最後に中断するまで、奉幣が続けられました。
そして明治時代に新たな社格制度が定められた際には、別格の伊勢を除いてすべて官幣大社・中社に列されています。