閑院宮邸跡
閑院宮邸跡とは?(基本データ)
- 名前
- 閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)
- エリア
- 京都御所
- ジャンル
- 建立・設立
- 1710年(宝永7年)に「閑院宮」家を創設
現在の主屋は1883年(明治16年)に旧宮内省京都支庁が設置される際の建造 - 創始者
- 第113代・東山天皇の第6皇子・直仁親王(閑院宮初代)
- 家紋
- 閑院菊(浮線綾菊の一種)
- アクセス
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- 京都市営地下鉄烏丸線「丸太町」駅下車 1番出口より徒歩約4分
- 京都市営バス「烏丸丸太町《地下鉄丸太町駅》」(10・51・65・93・202・204号系統)下車 徒歩約3分
- 京都バス「烏丸丸太町」(45・51系統)下車 徒歩約3分
- JRバス高雄・京北線「烏丸丸太町」下車 徒歩約3分
- 駐車場
- ■中立売西駐車場(徒歩約10分)
├バス20台 3時間1300円(以降1時間毎200円)
└自家用車250台 3時間500円(以降1時間毎100円)
7:40~19:30(出場は24時間可) - 拝観料
- 無料
- お休み
- ■展示室
└月曜、年末年始
※月曜が祝日の場合は開館
■庭園
└年末年始 - 拝観時間
- ■展示室
└9:00~16:30(受付16:00まで)
■庭園
└9:00~16:30 - 住所
- 〒602-0881
京都府京都市上京区京都御苑3 - 電話
- 075-211-6364(環境省京都御苑管理事務所)
- FAX
- 075-211-6365(環境省京都御苑管理事務所)
- 公式サイト
- 京都御苑 閑院宮邸跡
閑院宮邸跡 環境省
閑院宮邸跡の地図
閑院宮邸跡のみどころ (Point in Check)
京都市上京区京都御苑、烏丸通と丸太町通の交差する地下鉄丸太町駅に近い京都御苑の敷地内の南西角にある宮家の邸宅跡。
「閑院宮(かんいんのみや)」は伏見宮、桂宮、有栖川宮と並ぶ室町期から江戸期に成立して明治時代に至り、その流れは現在の皇室にまで続いているという4つの親王家「四親王家」の一つ。
この点、室町期に成立した伏見宮家、安土桃山期に成立した桂宮家、そして江戸初期の1625年(寛永2年)に有栖川宮が創設されて以来、新宮家の誕生は長らくなく、その一方でその当時は皇位継承予定者以外の親王は例外を除き出家して法親王となり、門跡寺院などに入寺することが半ば慣例となっていました。
ところが1654年(承応3年)に第110第・後光明天皇(ごこうみょうてんのう 1633-54)が22歳で崩御した際、近親の皇族男子がほとんどど出家していたため後継問題で紛糾、これをきっかけとして皇統の断絶を危惧した江戸中期の儒学者で5代将軍・徳川家宣の側近として仕えた新井白石(あらいはくせき 1657-1725)は徳川将軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新たな宮家が必要と幕府に建言し、この進言に基づいて朝廷に奏請の後、第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう 1702-37)が勅許し1710年(宝永7年)に創設されたのが当宮家です。
その中御門天皇の弟で第113代・東山天皇の第6皇子・直仁親王(なおひとしんのう 1704-53)を始祖とし、以降は実際の血縁で継承されていきましたが、江戸末期に第5代・愛仁親王(なるひとしんのう 1818-42)が亡くなると、愛仁親王には嗣子がなかったため継承者が不在となり、愛仁親王没後は実母・鷹司吉子が当主格として遇された後、明治期に入った1872年(明治5年)に伏見宮邦家親王第16王子・載仁親王(ことひとしんのう 1865-1945)が継承し第6代となりました。
そしてその子である第7代・春仁王(はるひとおう 1902-88)の時代に終戦を迎え、他の宮家と同じく1947年(昭和22年)の皇籍離脱によって旧宮家となり、春仁王は閑院春仁と名を改めています。
その一方で、閑院宮の血統からは1779年(安永8年)、第118第・後桃園天皇(ごももぞのてんのう 1758-79)の崩御に伴って閑院宮第2代・典仁親王(すけひとしんのう 1733-94)の皇子・祐宮(さちのみいや)が践祚して第119代・光格天皇(こうかくてんのう 1771-1840)となり、以降第120代・仁孝天皇、第121代・孝明天皇、第122代・明治天皇・第123代・大正天皇、第124代・昭和天皇、第125代・平成天皇、そして現在の第126代・今上天皇まで現在の皇室に直系で続いており、このため閑院宮第2代・典仁親王には明治期になってから「慶光天皇」の諡号および太上天皇の尊号が贈られています。
この「閑院宮」の明治維新前の邸宅は、他の宮家や五摂家などの公家と同様に現在の京都御苑を中心とする御所周辺にあり、一帯には当時は宮廷や公家屋敷が建ち並ぶ公家町が形成されていましたが、1869年(明治2年)の天皇の東京行幸に伴って宮家や公家は東京に移住することとなり、御所の周辺にあった公家屋敷などの建物や庭園などは1877年(明治10年)に始まった「大内保存事業」によってその大半が撤去されました。
それでも九条家や桂宮家、中山家、近衛家などの邸宅跡には一部の遺構が残っており、貴重な史跡となっていますが、現在の京都御苑の南西に位置する場所にあった閑院宮の邸宅跡も貴重な遺構が残るうちの一つです。
この点、創建当初の1716年(正徳6年)に建てられた建物は1788年の「天明の大火」で焼失しており、現在の建物との関係など詳しいことは不明ですが、再建された建物は閑院宮家が東京に移住する1877年(明治10年)まで邸宅として使用された後、華族会館、裁判所として使用されました。
そして1883年(明治16年)に旧宮内省京都支庁が設置される際に建て直されたのが現在の「主屋」だといい、その時に新築されたとの記録は残りますが、建設決定から竣工までわずか3か月足らずの緊急工事であったため、一部に当時存在していた閑院宮邸のものと推察される部材が利用されたとみられるものを見ることができるといいます。
この建物は長年の使用で屋根の雨漏りや建物の傾き、壁の破損などが進み、その間も宮内省から厚生省、そして環境省へと所管が変わりましたが、環境省の所管となった後の2003年(平成15年)11月から2006年(平成18年)3月まで、約3年をかけて閑院宮邸跡の保存修復作業が行われることとなり、「長屋門」などの建築物のほか、「築地塀」や池などの整備が行われるとともに、施設内には京都御苑の歴史や意義などを知ることのできる展示室も設置され、2006年(平成18年)4月から一般公開が行われています。
現在の邸宅跡は敷地面積が約11,400平方メートル、「主屋」は約860平方メートルの規模で、東門から入場すると正面に千鳥破風を構えた車寄せと、左右に続く書院造の格式ある建物の外観が見えてきます。
この主屋には中庭を囲むようにして木造平屋建の4つの棟が口の字型に配置されており、東棟は「玄関・受付・便所」、廊下によって接続された南棟は京都御苑の自然や歴史について知ることができる写真・絵図などの資料の展示を行う「収納展示室」があり、また磨き抜かれた欅材の床板に新緑が映りこむ「床もみじ」は邸内の見どころの一つとなっています。
続く西棟は「レクチャーホール」、渡り廊下を経て北棟は財団法人国民公園協会京都御苑の事務所となっており、この主屋を囲むようにして2つの庭園が南東側と南西側に広がっています。
主屋からも眺めることができる南東側の池泉回遊式庭園は江戸中期の作庭、京都御所や仙洞御所などの皇室の庭園でも見られる洲浜を有する庭園で、かつてはもっと大きな池泉式の庭園だったと伝わっていますが、現在の庭園は江戸時代の洲浜の遺構は地中に残しつつ、その上に同じ形で復元されたものだといいます。
そして園路を奥へと進んだ先にあるもう一つの南西側の庭園は1892年(明治25年)に閑院宮邸跡の敷地内に「宮内庁京都所長官舎」が建造された際にその庭園として大正期に作られたと伝えられていて、この所長官舎は現在は撤去されていますが、明治期に建造された歴史ある関連施設として2014年(平成26年)3月に間取りおよび庭園が復元整備され「宮内省所長官舎跡」として公開されています。
宮家の復元施設は貴重な存在であり、撤去された官舎の部屋割りを木枠で示すほか、建物の基礎と沓脱石・手水鉢・庭園などの遺構を案内板の説明とともに見学、当時の雰囲気を偲ぶことができるようになっています。
閑院宮邸跡の施設案内
邸内
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長屋門
敷地北側
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東門
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松の木
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門番所
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環境省京都御苑管理事務所
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主屋外観
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東棟(玄関・受付・トイレ)
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南棟(収納展示室)
京都御苑の自然や歴史についての写真や絵図などの展示と解説
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床もみじ
磨き抜かれた欅(けやき)材の床板に新緑が映り込む光景は必見
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中庭
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西棟(レクチャーホール)
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北棟(財団法人国民公園協会京都御苑事務所)
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スロープ
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庭園1
敷地内南東側
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案内板
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四阿
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庭園2
敷地内南西側
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宮内省所長官舎跡
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案内板3つ
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土蔵
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周辺
関連
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伏見宮家(同志社女子大学・旧了徳寺)
室町期の北朝第3代・崇光天皇の皇子・栄仁親王(よしひとしんのう 1351-1416)に始まり、第102代・後花園天皇は崇光天皇の皇曽孫だが、以降伏見宮からの皇位継承者はなし
ただし伏見宮の血統に属する香淳皇后(こうじゅんこうごう 1903-2000)は昭和天皇の皇后であり、現在の皇室にもその血脈が受け継がれている
また第20・23代・伏見宮邦家親王(くにいえしんのう 1802-72)は子宝に恵まれ、明治期に新たに創設された宮家を継いだ男子も多く、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけとなった
邸宅は御所の北と東とに2か所所有していて、その時に当主の都合でどちらかを本邸にしていたという
御所北部の邸宅跡は五摂家の一つである二条家邸宅跡の西隣で現在は「同志社女子大学」の敷地の一部に、御所東部の邸宅跡は鴨川デルタに近い河原町今出川交差点の南東(出町北鴨口)にあり「了徳寺」という寺であったが廃寺となっている
また宮家の歴代菩提寺として相国寺塔頭の「大光明寺」があるほか、北の出町柳に残る「妙音弁財天(出町妙音堂)」の弁財天は伏見宮家の鎮守であったものを、宮家の東京移転の後に現在地に奉安したもの
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桂宮家(桂宮邸跡・二条城本丸御殿)
安土桃山期の1589年(天正17年)に豊臣秀吉の奏請によって第107代・後陽成天皇が宮家の創設を許可し生まれた宮家
初代は第106代・正親町天皇の皇孫で後陽成天皇の第6皇子・智仁親王(としひとしんのう 1579-1629)で、当初は八条宮と称し、後に常盤井宮、京極宮を経て「桂宮」と改称された
智仁親王は桂離宮の造営者として知られるほか、和歌に精通し、細川幽斎より古今伝授を受け、後に後水尾天皇に相伝したことでも知られている
後継ぎに恵まれないことも多く、天皇または上皇の皇子が宮を継承することも多く、1881年(明治14年)に120代・仁孝天皇の第3皇女・叔子内親王(すみこないしんのう 1829-81)が亡くなったのを最後に宮家は途絶え、桂宮の親王が皇位を継承したことはなかった
邸宅跡は京都御苑北、今出川御門の東側に位置し、跡地は京都御苑の官舎となっており立ち入り禁止エリアで、入口に勅使門があり、その門前に「桂宮邸跡」の標柱が建つ
敷地内にあった今出川屋敷は宮家の断絶後は宮内庁に引き継がれ、1893年(明治26年)から翌1894年(明治27年)にかけ、当時は離宮であった「二条城」に御殿の一部が移築され、現在は二条城の「本丸御殿」となっている
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有栖川宮家(有栖川宮邸跡・平安女学院大学有栖館)
江戸初期の1625年、第108代・後水尾天皇の時代に第107第・後陽成天皇の第7皇子・好仁親王(よしひとしんのう 1603-38)が宮号を賜り創設され、当初は高松宮と称していたが、後に有栖川宮と改められた
1654年に後水尾天皇の皇子で第2代・高松宮を継いでいた良仁親王が即位し第111代・後西天皇となっている
第112代・霊元天皇の皇子・職仁親王(よりひとしんのう 1713-69)が有栖川宮第5代を継承した後は実際の血縁で継承されたが、大正時代に第10代・威仁親王(たけひとしんのう 1862-1913)が亡くなると継承者が不在となり途絶えた
ただし有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって宣仁親王(のぶひとしんのう 1905-87)により引き継がれるとともに有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられている
第9代・熾仁親王(たるひとしんのう 1835-95)は「王政復古の大号令」により新政府が樹立されて総裁・議定・参与の三職が新たに設けられるとその最高職である総裁に就任し、戊辰戦争が勃発すると自ら東征大総督の職を志願し東海道を進軍し江戸無血開城へと繋がり、その後も明治天皇の絶大な信認を得て天皇の名代として外国歴訪なども行った
邸宅は江戸時代には御所の北東部分の猿ヶ辻の場所にあったが、1865年(慶応元年)に御所の拡張用地として召し上げられ、代わりに下賜されたのが京都御所中央、建礼門のすぐ南の凝華洞(御花畑)跡だったという
移転後の邸宅跡を示す場所には「有栖川宮邸跡」の標柱と「凝華洞跡」の駒札、それに凝華洞跡のイチョウの大木があるのみであるが、遺構として建物の一部が邸宅跡の南西、御所西にある平安女学院大学に学舎の一つ「有栖館」として移築されている
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公家屋敷跡(幕末創設の宮家)
1867年(慶応3年)12月9日「王政復古の大号令」に伴って天皇中心の国家体制への転換が図られると、明治天皇を補佐するために四親王家のほかに新たな宮家が創設されることとなりました。
当時宮家や天皇家を継がなかった皇族の子弟たちは仏門に入るのが通例でしたが、これらの仏門にあった皇族が還俗することで7つの宮家が新たに創設、四親王家と合わせて最大で11宮家となり、その後1868年(明治元年)に聖護院宮の薨去によって、更に1881年(明治14年)に桂宮が途絶えたことにより、9宮家となりました。
7つの宮は青蓮院から中川宮(→賀陽宮→久邇宮)、勧修寺から山階宮、仁和寺から仁和寺宮(→東伏見宮→小松宮)、聖護院から聖護院宮、知恩院から華頂宮、梶井円融院(現在の三千院)から梶井宮(→梨本宮)、そして照高院(現在は廃絶)から照高院宮(→北白川宮)。
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賀陽宮家(賀陽宮邸跡・出水の枝垂れ桜)
幕末に創設された宮家の一つで、伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王(あさひこしんのう 1824-91)が還俗して「中川宮」と称したのがはじまりで、1864年(元治元年)に屋敷内にあった榧(かや)の巨木にちなんで宮号を「賀陽宮(かやのみや)」と改められた
朝彦親王は香淳皇后の祖父であり、平成天皇の曾祖父にあたる人物で、青蓮院門跡の第47世門主・第228世天台座主を務めたが、日米修好通商条約に反対し13代・徳川家定の後継問題で一橋慶喜を支持したことから大老・井伊直弼に目を付けられ、「安政の大獄」では隠居永蟄居を命じられる
その後「桜田門外の変」で井伊が暗殺されると赦免されて復帰、孝明天皇の信任厚く還俗して中川宮となり、公武合体派の領袖として会津藩・松平容保や薩摩藩と結び、長州藩とこれを支持する公暁らを京都から追い出した「八月十八日の政変」を画策し成功を収めるも、そのことがきっかけて長州藩の恨みを買い「池田屋事件」では命を狙われることに(新選組の活躍で未遂に)
孝明天皇の崩御後は討幕派・尊攘派の公卿は相次いで復権したことで立場を失い、更には反政府的な運動の建議で親王位をはく奪されて広島藩に預けられ、その後謹慎を解かれると1875年(明治8年)に新たに久邇宮家を創設しその初代となり、後に伊勢神宮の祭主も務めている
1891年(明治24年)に朝彦親王が薨去すると、久邇宮は病弱であった第2男子・邦憲王(くにのりおう)に代わってその弟の邦彦王が跡を継ぎ、邦憲王は翌年の結婚を機に新たな宮家の創設を許され、1892年(明治25年)に江戸期に親王号を一時剥奪されるまで父が称していた賀陽宮の称号を賜わり、改めてその初代となった
その後2代・邦憲王が跡を継いだが、戦後の1947年(昭和22年)にGHQの指令により10月14日に皇籍離脱となった宮家の一つである
朝彦親王時代の邸宅跡は京都御苑南西、下立売御門の北に位置し、跡地の東側には邸宅跡を示す「賀陽宮邸跡」の駒札と朝彦親王の没後にその遺徳を偲び邸宅跡を記念して建てられた「貽範碑」があるほか、有名な「出水の枝垂れ桜」があり、烏丸通に近い西側は「出水広場」として整備され、「出水の小川」が流れている
また初代・邦憲王の宮邸は京都と東京にあり、京都邸の跡地は三十三間堂の東隣にある京都パークホテル(現在はホテル・ハイアットリージェンシー京都)に、東京邸は空襲で焼失し千鳥ヶ淵戦没者墓苑になっている、その他に泉涌寺(御寺)に賀陽宮・久邇宮墓地がある
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山階宮家(京都地方法務局)
幕末に創設された宮家の一つで、山科の門跡寺院・勧修寺を相続し仏門にあった伏見宮邦家親王の第1王子・晃親王(あきらしんのう 1816-98)が還俗して創設
晃親王は明治維新後は議定・外国事務総督に就任、明治天皇が最も頼りにしていたといい、若き明治天皇の名代として明治政府の外交トップとして活躍した、墓は泉涌寺雲龍院にある
第3代・武彦王(たけひこおう 1898-1987)の時代に終戦を迎え、他の宮家同様に1947年(昭和22年)に皇籍離脱し、後は山階氏を名乗る
御所東の南方に位置し、跡地は京都地方法務局になっている
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仁和寺宮(東伏見宮・小松宮)家(里坊跡)
御室にある仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り純仁法親王(じゅんにんほっしんのう)を号すとともに第30世門跡に就任していた伏見宮邦家親王の第8王子・嘉彰親王(よしあきしんのう 1846-1903)が明治天皇から還俗を命じられ創設
22歳の若さで新政府の閣僚である「議定」に任ぜられるとともに、1868年(明治元年)の「鳥羽伏見の戦い」においては征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を拝し新政府軍の総大将として鳥羽方面へと進軍し、新政府軍の大勝利を導いた
その後の戊辰戦争でも奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、明治維新の行方に大きな影響を与えた
その後1870年(明治3年)に「東伏見宮」と改称し、1882年(明治15年)には維新以来の功績を顕彰され、称号を仁和寺の寺域周辺の旧地名「旧小松郷」にちなんで「小松宮」名を「彰仁」に改めた
明治時代には長く陸軍の中枢で活躍し、陸軍大将、近衛師団長や兼議定官などを歴任、「日清戦争」の際には参謀総長・征清大総督として旅順に出征し、1898年(明治31年)には元帥府(終身の陸軍大将)に列せられている
また社会事業として戦争犠牲者の救護にも努め、1877年(明治10年)には「博愛社」の創設に力を尽くし初代総長となり、1887年(明治20年)に「日本赤十字社」に改められると初代総裁となり、赤十字社の発展に尽くしたほか、国際親善としてヨーロッパ各国を歴訪し、また大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務めるなど、皇族の公務の原型を作る一翼を担った
赤十字社の活動に貢献したことにより東京・上野恩賜公園(通称・上野公園)の上野動物園入口ゲートの途中左手に騎乗姿の小松宮の銅像が建立されている
小松宮彰仁親王には子がいなかったため、その没後に小松宮(こまつのみや)の祭祀は、仁和寺宮の弟にあたる伏見宮邦家親王の第9王子・北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう 1847-95)の4男・輝久王(てるひさおう 1888-1970)が小松輝久として臣籍降下し、小松侯爵家を名乗るとともに継承した
輝久は終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、戦後は平安神宮の宮司を務めたほか、その輝久の孫にあたる小松揮世久(こまつきよひさ 1949- )は実業家として活躍した後、2017年(平成29年)からは今上天皇(1960- )の妹・黒田清子(くろださやこ 1969- )祭主の新体制の下で、伊勢神宮の大宮司を務めている
幕末の仁和寺宮の里坊跡の位置は京都御所(禁裏)の南門前にある有栖川宮邸のすぐ南、西園寺邸の隣
また関連史跡としては法金剛院の裏手、裏山の北麓に小松宮彰仁親王の髪塔がある「仁和寺宮墓地」、静岡県三島市一番町に彰仁親王の別邸として造営され、現在は市営の公園・動物園となっている「楽寿園(らくじゅえん)」、高野山に弘法大師空海によって開創された真言密教修行の根本道場「金剛峯寺」の西隣にあり、小松宮彰仁親王(楞厳定院御室)の位牌や親王が名付けた樹齢千年以上といわれている白藤「登龍の藤」がある「總持院(そうじいん)」などがある
親王夫妻の墓所は皇族方の集合墓地である東京の「豊島岡墓地(としまがおかぼち)」にあり、また東京の邸宅跡には現在明治大学の駿河台キャンパスがあり、リバティタワーが建てられている
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聖護院宮(北白川宮)家
聖護院に入寺していた伏見宮邦家親王の第2王子・嘉言親王(よしことしんのう 1821-68)が1868年(慶応4年/明治元年)に還俗して「聖護院宮」を名乗るも、同年に薨去
弟宮であり元は同じく聖護院預かりとなっていた伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王(さとなりしんのう 1856-72)は1868年(慶応4年)に還俗し「照高院宮」を称していたが、聖護院宮を継承して初代となる
1870年(明治3年)に宮号が旧門跡との区別が判然としないとの理由で「北白川宮」に改称
その後、第5代・道久王(みちひさおう 1937-2018)の時代に終戦を迎えて1947年(昭和22年)に他の宮家とともに皇籍離脱して北白川道久を名乗る
東京にあった邸宅は最初が紀尾井町にあり、長らく赤坂プリンスホテルが営業を続けていた場所、その次に建てられたのが港区高輪で新高輪プリンスホテルのある場所
幕末に聖護院宮の里坊があったのは御所の東、三条家の北側あたりで、現在一帯は京都迎賓館になっている
智成親王墓・聖護院宮墓地(地蔵谷・丸山)が京都の北白川天神宮の前を通る府道30号下鴨大津線(志賀越道)を滋賀方面に進んだ先にある
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華頂宮家
1868年(慶応4年)に知恩院に入寺していた伏見宮邦家親王の第12王子・博経親王(1851-76)によって創設
知恩院の山号である華頂山にちなむ
その後3度にわたって断絶の危機に瀕し、皇族の数が少なかったことから特旨をもっての存続が繰り返され、第4代・博忠王が1924年(大正13年)に薨去すると博忠王に王子女がなかったため華頂宮家は断絶
華頂宮家の祭祀は博忠王の弟・伏見宮博信王が1926年(大正15年)に20歳で海軍少尉の時に臣籍降下して華頂侯爵家を創設して承継した
華頂侯爵の旧邸は鎌倉市にあり、1996年に鎌倉市が取得した上で旧華頂宮邸として庭園部分が一般に公開されている
幕末に知恩院宮の里坊があったのは御所の南に位置した有栖川宮の南側、仁和寺宮里坊の東隣
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梨本宮(梶井宮)家
幕末に創設された宮家の一つで、梶井円融院(現在の三千院)を相続した伏見宮貞敬親王の第10王子・守脩親王(もりおさしんのう 1819-85)が還俗して「梶井宮」と称し、次いで1870年(明治3年)に「梨本宮」と改称
第3代・守正王(もりまさおう 1874-1951)の時代に終戦を迎え、他の宮家と同様に1947年(昭和22年)に皇籍離脱し梨本家を名乗る
御所東、河原町今出川交差点の南東に位置する伏見宮邸跡の南側に位置し、跡地は京都府立医科大学の体育館や聖ドミニコ学院などの施設になっている
遺構としては二条城の東大手門前にあるHOTEL THE MITSUI KYOTO(以前は京都国際ホテル)に移築された「梶井宮門」がある
「梶井宮門」は1703年(元禄16年)に梶井宮御殿の門として河原町今出川周辺に創建され、その後1935年(昭和10年)に250年以上にわたってこの地に存在した三井総領家(北家)の邸宅門としてこの地に移築されたという
2020年(令和2年)11月に「HOTEL THE MITSUI KYOTO」の表玄関として修復が行われ、2021年(令和3年)に登録有形文化財に登録された
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照高院宮家
聖護院に入寺していた伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王(さとなりしんのう 1856-72)は1868年(慶応4年)に照高院の院主に任じられた後、維新政府の方針によって還俗し「照高院宮」を創設したが、同年更に聖護院宮を創設していた兄宮である伏見宮邦家親王の第2王子・嘉言親王(よしことしんのう 1821-68)が薨去したため、聖護院宮を継承することとなりその初代となった
聖護院宮はその後、1870年(明治3年)に宮号が旧門跡との区別が判然としないとの理由で「北白川宮」に改称され、終戦直後まで続いた
北白川宮家は他の宮家同様に1875年(明治8年)には東京に移転しているが、照高院はこの宮家の東京移転に伴っての堂宇が取り壊されており現存していない
豊臣秀吉の信任が厚かった道澄が文禄年間(1592-96)に東山妙法院に創建したが、方広寺鐘銘事件(1614年)に連座して廃絶された後、1619年(元和5年)に後陽成天皇の弟・聖護院興意法親王(1576-1620年)が、廃城が決まった伏見城二の丸の松の丸の建物を譲り受けて北白川外山町付近に再建され、寺紋に菊御紋章雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」「北白川御殿」と呼ばれていたという
江戸後期には聖護院門跡の支配下にあり、聖護院門主の退所であった
照高院は左京区北白川外山町にあったが、その地は北白川天神宮の東方、御殿橋を渡った先に位置するが、現在は石垣が残るのみ
またこの跡地のやや北西の左京区北白川山ノ元町に「照高院宮址」の石碑が建てられているという
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- 毎月第1・第3土曜
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