出町妙音堂(妙音弁財天)
出町妙音堂(妙音弁財天)とは?(基本データ)
- 名前
- 出町妙音堂(妙音弁財天)
(でまちみょうおんどう(みょうおんべんざいてん)) - エリア
- 京都御所
- ジャンル
- 建立・設立
- 1306年(嘉元4年)、琵琶演奏の名家とされる西園寺家が鎌倉時代に皇室に持参した念持仏で、後に伏見宮家の始祖・栄仁(よしひと)親王へ伝えられ伏見御所に祀られるように
江戸時代14代・貞建(さだたけ)親王の時に宮家の移転により河原町今出川下る東側に遷座
その後明治期に東京の宮邸へ移されるも、1901年(明治34年)、地元の人々の請願により現在地に祀られる - 宗派
- 臨済宗相国寺派大本山相国寺の塔頭・大光明寺の飛び地境内
- 山号
- 本尊
- 青龍妙音弁財天画像
- ご利益
- 技芸上達(音楽・芸事上達)・福徳円満
- 寺紋
- 札所等
- 京都七福神(弁財天)
- アクセス
- 駐車場
- なし(近くに市営駐車場あり)
- 拝観料
- 境内自由・無料
- お休み
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- 拝観時間
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- 住所
- 〒602-0822
京都府京都市上京区桝形通出町東入青龍町5 - 電話
- 075-241-2454
- FAX
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- 公式サイト
- 妙音弁財天 上京区の史蹟百選
出町妙音堂(妙音弁財天)の地図
出町妙音堂(妙音弁財天)のみどころ (Point in Check)
京都市上京区桝形通出町東入青龍町、賀茂川と高野川が合流して鴨川となる「出町柳」の地の西側、出町枡形商店街にほど近い賀茂川に架かる出町橋の西詰にある臨済宗相国寺派大本山相国寺の塔頭・大光明寺の飛び地境内にあるお堂。
「京都七福神」の弁財天で、地域住民からは「出町の弁天さん」として親しまれています。
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した公卿・西園寺公経(さいおんじきんつね 1171-1244)が1224年(元仁元年)に現在の金閣寺付近に建てた別荘「北山第(きたやまてい)」の池の畔に建てられた「妙音堂」がはじまり。
堂内には本尊として弁財天像が祀られたほか、西園寺家第二伝の弘法大師筆と伝わる青龍妙音弁財天画像も安置されていたといいます。
その後、鎌倉後期の1306年(嘉元4年)、左大臣・西園寺公衡(さいおんじきんひら 1264-1315)の娘・西園寺寧子(さいおんじねいし/やすこ 1292-1357)(広義門院)が第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう 1288-1336)の女御として輿入れした際、青龍妙音弁財天画像を念持仏として持参したといいます。
寧子は北朝初代・光厳天皇及び2代・光明天皇の実母で、南北朝の動乱の中、室町初代将軍・足利尊氏と弟・直義が対立した「観応の擾乱」で南朝側が優勢となり、北朝側の全上皇(光厳・光明上皇・崇光)と皇位継承者(直仁親王)が拉致された際に、光厳上皇の第三子・弥仁王(後の後光厳天皇)を即位させて北朝を存続させるため、事実上の「治天の君」の座に就いて上皇の役割を代行し、後光厳天皇へ政務権を継承した後も家督者として君臨。
皇室出身者でない女性として唯一、皇室の最高権力者である「治天の君」となったことで知られている女性です。
西園寺家は公経が鎌倉幕府と関係が深かったことから鎌倉時代には隆盛しましたが、鎌倉幕府の滅亡に伴って衰退し、北山第も荒廃。
その後、室町時代に3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が西園寺実永(さいおんじさねなが 1377-1431)より別荘の地を譲り受け新たな山荘「北山殿(きたやまどの)」、後の金閣寺(鹿苑寺)を造営することとなり、それに伴って妙音堂も取り壊され、本尊の弁財天像はその後様々な経緯をたどって、現在は京都御苑内にある白雲神社の祭神として祀られています。
一方青龍妙音弁財天画像の方は北朝の光厳、光明、崇光天皇を経て崇光天皇の皇子で伏見宮家の始祖となった栄仁親王(よしひとしんのう 1351-1416)へと伝承され、その後は伏見御所の殿内に祀られていましたが、江戸中期の享保年間(1716-35)、伏見宮15代・貞建親王(さだたけしんのう 1701-54)の時に宮家の移転に伴って出町の地、現在の河原町今出川下る東側に遷座。
更に伏見宮19代・貞敬親王(さだよししんのう 1776-1841)により邸内が一新された際に妙音堂も改築され、庶民の参拝も許されるようになったといいます。
明治初期の天皇の東京行幸に伴う伏見宮家の移転により妙音堂もいったんは東京の宮邸へ移されますが、1901年(明治34年)に地元の人々の請願により旧宮邸に近い現在地に再建され、現在は「伏見御所の弁財天」と称されるとともに、「京都七福神」の一つとして技芸上達・福徳円満を願う人々の厚い信仰を集めています。
本堂(妙音堂)には御前立の弁財天像、本堂裏にある六角堂に弘法大師作の本尊・妙音弁財天画像の掛け軸が祀られ、六角堂の周囲を年の数だけ回ると願いが叶うと伝えられています。
そして本堂裏には弁財天の眷属(使い)である蛇の描かれた瓦や額などが多数掲げられていますが、これらは「蛇の絵馬」として「出町七不思議」の一つにも数えられています。
また境内の入口には鳥居が立ち、境内に豊川稲荷が祀られているなど、神仏習合の名残が多数残されている寺院です。
出町妙音堂(妙音弁財天)の施設案内
境内
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正面鳥居
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寺号標
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寺務所
鳥居くぐって正面
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手水舎
鳥居くぐって右 龍の取水口
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参道
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本堂(妙音堂)
参道くぐってすぐ右を進んだ突き当たり
本尊は弘法大師作の妙音弁財天画像
本堂の外に掛けられた蛇の絵馬、屋根には蛇の瓦
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蛇の絵馬
本堂裏に多数掲げられており、「出町七不思議」の一つに数えられている
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六角堂
本堂の裏側
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鳥居群
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豊川稲荷
陀枳尼天を祀る
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周辺
関連
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大光明寺
境内を管理
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相国寺
大光明寺は相国寺の塔頭
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白雲神社(御所の弁天さん)
厳島神社、宗像神社とともに京都御苑内にある3つの神社の一つ
かつて金閣寺付近にあった西園寺家の別荘「北山第」の地には妙音堂と呼ばれる堂が建てられ、青龍妙音弁財天画像とともに本尊として弁財天像が祀られていた
様々な経緯を経て、青龍妙音弁財天画像は出町妙音堂の本尊として、もう一方の弁財天像の方は白雲神社の祭神として祀られている
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西園寺
京都市上京区寺町通鞍馬口下ル高徳寺町にある浄土宗寺院
鎌倉初期の1224年(元仁元年)、藤原(西園寺)公経が現在の金閣寺(鹿苑寺)付近に別荘「北山第」とともに御願寺として「西園寺」を創建したのがはじまり
境内には衣笠山を借景とした苑池、池畔には本堂や寝殿などの堂宇が建てられたといい、以来この寺の名前が同家の家名となり、寺は北山第とともに子孫に領有されていったという
しかし後ろ盾となっていた鎌倉幕府の滅亡に伴って西園寺家が衰退すると北山第は荒廃、室町時代に第3代将軍・足利義満が自身の別荘「北山殿」、後の金閣寺(鹿苑寺)が造営されるのに伴って同地を所望したため、寺は1352年に室町に移転
その後、1590年(天正18年)(1554年とも)に秀吉の京都改造計画に伴い、寺町通沿いに移転し現在に至る
現在の本堂は1788年(天明8年)の「天明の大火」の後に再建されたもので、正面には明治・大正・昭和の三時代にわたって政治家として活躍し2度にわたって内閣総理大臣を務めた西園寺公望(さいおんじきんもち 1849-1940)の筆による寺号の額が掲げられているほか、堂内の本尊・木造阿弥陀如来坐像は北山殿の邸内の北山堂にあったとも、平安時代の恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝わり、重要文化財に指定
その他にも地蔵堂には旧地の北山にあった功徳蔵院(くどくぞういん)の遺仏と伝わる地蔵菩薩像が安置されている
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出町妙音堂(妙音弁財天)の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1/1~1/15
初詣
豊川稲荷の祭典
- 1/22
鎮座祭
- 2月節分
節分祭
- 2月上の土曜
大根炊き
出町桝形商店街にて、妙音弁財天で家内安全・無病息災の祈祷済の大根が振舞われる
- 2月初午
初午祭
豊川稲荷の祭典
- 4/22
春季大祭
年2回だけ青龍妙音弁財天画像が妙音堂に掛けられるうちの一日
- 11/27
秋季お火焚祭
年2回だけ青龍妙音弁財天画像が妙音堂に掛けられるうちの一日
月並行事
- 毎月14・22日
縁日