京都市北区紫野大徳寺町、堀川北大路のやや西、船岡山の北側に伽藍を構える京都を代表する禅宗寺院の一つで、臨済宗大徳寺派大本山。
有名な一休禅師が復興し、戦国時代に多くの戦国武将が帰依して、本能寺の変に倒れた織田信長の葬儀が行われたことや、秀吉と千利休との確執の原因となった山門があることでも知られています。
鎌倉末期の1315年(正和4年)(ないし1319年)に大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が赤松則村の帰依を受け雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのがはじまり。
その後、花園天皇・後醍醐天皇の帰依を受けて妙超は寺域を拡大し、1324年(正中元年)頃には禅宗寺院としての堂舎を整え、「竜宝山大徳寺」と号します。
翌1325年(正中2年)に花園天皇の勅願寺、更に1533年(元弘3年)には後醍醐天皇の祈願所となり、「本朝無双之禅苑」の勅額を下賜され、五山の第一にも位置づけられるほどの権威を誇りました。
しかし後醍醐天皇と対立する室町幕府の誕生すると、天皇と関係の深かった大徳寺は足利義満などから冷遇を受けるなどし寺勢は衰退。
1431年(永享3年)には五山十刹からも離脱し「林下」と称された在野的立場を宣言し、他門の僧の入寺を許さない独自の禅道場としての道を歩むこととなります。
更に1453年(享徳2年)の火災と1467~77(応仁元年~文明9年)の「応仁の乱」の兵火で当初の伽藍を焼失しますが、1474年(文明6年)、一休宗純が第47世住職となると堺の豪商で茶人の武野紹鴎らの援助を受け伽藍が再建されます。
桃山時代には豊臣秀吉が本能寺の変に倒れた織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立。
併せて寺領も寄進され、これを契機に戦国武将による塔頭建立が相次ぎ、隆盛を極めます。
また茶の湯を大成した千利休や小堀遠州といった茶人も山内に庵を結んだことから茶の湯との関わりが深く、「大徳寺の茶面」と称され、ほとんどの塔頭寺院の境内に有名な茶室や茶庭が伝えられています。
境内南の勅使門より重文の山門、仏殿、法堂、そして国宝の方丈と南北に堂宇が並び、いわゆる七堂伽藍を完備。
そしてこれらの中心伽藍を囲むように20余りの塔頭寺院が点在し、同じく数多くの塔頭寺院を有する妙心寺同様に寺町が形成されています。
建造物の見どころとしては、まず山門は千利休によって増築された2階部分を「金毛閣」と称し、利休像を安置したことから秀吉の怒りを買い、利休切腹の原因となったことで有名です。
次に方丈も見どころの一つで、方丈内の襖絵80余面はすべて狩野探幽の筆によるもので重文。
そして本坊の方丈庭園は江戸初期を代表する枯山水の庭園で、国の特別名勝・史跡に指定されています。
また方丈の正面には聚楽第(じゅらくだい)の遺構と伝わる唐門があり、こちらは国宝に指定されています。
一方寺宝も豊富で、牧谿筆で国宝の「観音猿鶴図」や同じく国宝の「絹本着色大燈国師頂相」などの書画をはじめとした文化財を多く所蔵しており、年に1度、毎年10月の第2日曜の「曝涼展」に虫干しも兼ねた一般公開が行われます。
本坊も含め観光寺院ではないことから、塔頭寺院は通常非公開となっているものも多く、境内には厳かで凜とした空気が漂っています。
そんな中で龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4院は常時公開されており、いずれも見事な庭園があります。
中でも高桐院は紅葉の名所として知られ、秋には多くの参拝客が訪れます。
その他の塔頭も春や秋に特別公開されることがあるほか、千利休の月命日である毎月28日の月釜の際に入場できるものもあります。
また門前名物としては大徳寺の名僧・一休宗純が中国の禅僧から教えられたものを大徳寺に伝えたという「大徳寺納豆(だいとくじなっとう)」が知られています。
一般に食べられている糸引き納豆とは全く別の食べ物で、黒色に塩の利いた赤味噌もに似た濃厚な風味を特色とし、門前の「大徳寺一久」「本家磯田」の2店で販売されています。