大徳寺 総見院
大徳寺 総見院とは?(基本データ)
- 名前
- 大徳寺 総見院(だいとくじ そうけんいん)
- エリア
- 紫野・鷹ヶ峯
- ジャンル
- 建立・設立
- 1583年(天正11年)、「本能寺の変」で亡くなった織田信長の菩提を弔うため創建
1928年(昭和3年)、本堂が再興 - 創始者
- [開基] 豊臣秀吉
[開山] 大徳寺117世・古渓宋陳 - 宗派
- 臨済宗大徳寺派 大徳寺塔頭
- 山号
- 本尊
- 織田信長坐像
- 寺紋
- 織田木瓜(織田家家紋)
- アクセス
- 駐車場
- ■大徳寺駐車場
├バス20台分 2,000円
└自家用車50台分 1時間まで500円、以後30分毎100円 - 拝観料
- 大人 600円
高校生 400円
中学生 300円
小学生以下 無料(保護者同伴に限る) - お休み
- 通常非公開
春秋の特別公開のみ - 拝観時間
- 10:00~16:00
- 住所
- 〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町59 - 電話
- 075-492-2630
- FAX
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- 公式サイト
- 大徳寺 総見院 京都春秋
京都市指定・登録文化財-天然記念物(北区) 京都市情報館
大徳寺 総見院の地図
大徳寺 総見院のみどころ (Point in Check)
京都市北区紫野大徳寺町、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の境内北側、主要伽藍のうち法堂の北西あたりから西へと伸びる参道に南面して建つ大徳寺の塔頭寺院。
本尊は織田信長坐像で、戦国大名・織田信長(おだのぶなが 1534-82)の菩提寺として知られる寺院です。
戦国時代の1582年(天正10年)、明智光秀が起こした「本能寺の変」で織田信長がその生涯を閉じると、信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし 1537-98)は、有名な中国大返しを行って京都に戻り、天下分け目の天王山「山崎の戦い」で光秀を破って一躍信長の後継者に名乗りを挙げます。
そして信長の後継者として認められることを望んだ秀吉は、本能寺の変の100日後の10月10日に信長の四男で秀吉の養子・羽柴秀勝を喪主として大徳寺にて大葬礼を執り行うとともに、翌1583年(天正11年)、信長の一周忌を迎えるにあたってその菩提を弔うため、千利休参禅の師として知られる大徳寺117世・古渓宗陳(こけいそうちん 1532-97)を開山として建立したのが当院のはじまりです。
この点、創建にあたっては信長の遺骸は発見されなかったことから、信長の木像が香木を使って2体造られ、1体は創建に先立って行われた大葬礼の際に棺に入れて荼毘に付され、もう1体が本尊として総見院に安置されることとなり、また寺名については信長が生前より自身の法名として定めていた「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」にちなんで命名されたもので、「総見」とは全てを見通すという意味だといいます。
創建当時は寺勢は大いに隆盛し、広大な境内には豪壮な堂塔が立ち並んでいたといいますが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により多くの堂塔伽藍や宝物などが失われて荒廃。
その後は大徳寺の修禅専門道場および大徳寺管長の住居とされていましたが、大正時代に入ると有志によって多くの寄付が集められ、1928年(昭和3年)に本堂が再興され、更に1961年(昭和36年)の信長380年忌の際に廃仏毀釈の難から逃れるため本山である大徳寺に避難されていた秀吉奉納の等身大の木造・織田信長坐像が再び本堂に迎えられ、現在に至っています。
境内にはその他に創建当時から残るものとして「正門」および「親子塀」と呼ばれる二重構造の土塀、信長の家臣・堀秀政の寄進による「鐘楼」があるほか、その他の見どころとして趣の異なる3つの茶室や戦国武将・加藤清正が朝鮮半島から持ち帰り朝鮮石を掘り抜いて造られた「掘り抜き井戸」、秀吉がこよなく愛したと伝わり、日本最古の胡蝶侘助とされる樹齢約400年の「侘助椿(わびすけつばき)」、そして境内の墓地には信長をはじめとする一族の墓があり、創建以来、6月2日の信長の年忌には一山総出で盛大な法要が営まれています。
通常非公開の寺院で普段は拝観謝絶の立て札が掲げられていますが、春と秋に開催される特別公開の際に拝観をすることが可能となっています。
大徳寺 総見院の施設案内
境内
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表門(正門)
大徳寺境内の主要伽藍のうち法堂の北西から西へと伸びる参道に南面して建つ
1583年(天正11年)に秀吉が創建した当時そのままの姿で現存
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親子塀
表門の左右の土塀で、表門と同様に創建当時のものと伝わる
塀の中に塀がある二重構造の塀で、空洞部分は非常時に隠れるためのものであったともいわれている
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「信長公廟所」の石標
表門手前右
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通用口と拝観受付
表門の右側
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照苑塔
本堂前左
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茶筅塚
本堂前右
毎年4月28日には茶筅供養
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本堂
門をくぐって右手前方
「総見院」の扁額が掛かり、堂内には本尊の木像信長公座像を安置
像は1583年(天正11年)、運慶・湛慶の流れを汲む当時の一級の仏師・康清(こうせい)の作で、高さは3尺8寸(115cm)、衣冠帯刀姿の座像で、爛々と輝き人を射るような眼光が信長の面影をよく伝えている
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回廊
本堂の右手(東側)から北へと伸びる
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輿
回廊の途中の軒下に吊り下げられ、真下は緋毛氈の敷かれた休憩所になっている
廃仏毀釈を避けるために大徳寺に避難させていた木造を1961年(昭和36年)の信長380年忌の際に総見院本堂に戻した際に使用されたもの
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香雲軒(こううんけん)
回廊の途中左手(西側)
表千家の13代・即中斎の好みの茶室
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龐庵(ほうあん)
回廊の途中左手(西側)、香雲軒の北側
表千家・而妙斉の筆による扁額が掛かる
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壽安席(じゅあんせき)
回廊の一番奥、龐庵の北側
明治から昭和にかけて活躍した実業家・山口玄洞が寄進
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壽庵席前の井戸
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参道
表門くぐって右手に本堂
正面突き当たりに清正の井戸があり、その左手に墓地の入口
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手水鉢と地蔵
参道途中左手
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侘助椿(胡蝶侘助)
玄関前、墓所入口のそばにある
侘助(ワビスケ)は花が小さく早春から紅白の花を咲かせ、茶花としてもよく用いられる椿の園芸品種
この木は豊臣秀吉が千利休から譲り受けて植えたものが大きくなったと伝えられる秀吉遺愛の椿で、樹齢400年を超えこの品種の現存する日本最古のもの
1983年(昭和58年)6月1日に「総見院のワビスケ」として「京都市指定天然記念物」に指定
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清正の井戸(掘り抜き井戸)
表門くぐって参道突き当たり、本堂左横
加藤清正が朝鮮出兵時に持ち帰ったとされる朝鮮石を彫り抜き井筒にしたと伝わり、現在もなお水が湧き出ていて毎朝のお供えに使用されているという
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玄関
井戸の左横
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墓所入口
玄関の左手 墓所は境内の西側に広がる
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信長公一族墓碑
境内西側に広がる墓地の北側
織田信長をはじめとする織田一族の五輪石や墓が並ぶ
左から秀雄(信雄嫡男)、信雄(信長二男)、信長、信忠(信長嫡男)、秀勝(信長四男)、信高(信長七男)、信好(信長十男)と並び、その側に濃姫(信長正室)、お鍋の方(側室)、徳姫(信長の息女)
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鐘楼
境内の南東、土塀の外側の参道沿いにある
信長の家臣・堀秀政の寄進によるもので、鐘楼は創建当時のもの
銘文は開山・古渓宗陳の作と伝わる
梵鐘および鐘楼ともに国の重要文化財