妙法院
天台三門跡の一つで三十三間堂の本坊
特別公開時を除き非公開。青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院で三十三間堂の本坊。 豊臣秀吉が先祖供養を行った際に台所として使用されたという庫裏は国宝、他に重要文化財の大書院や玄関、狩野派の障壁画などを展示
妙法院とは?(基本データ)
- 名前
- 妙法院(みょうほういん)
- エリア
- 東山七条
- ジャンル
- 建立・設立
- 平安初期(比叡山西塔にあった坊「本覚院」が起源とされるが確証なし)
1160年(永暦元年)、洛中に移転(後白河法皇が自らが住む院御所・法住寺殿の鎮守社として新日吉社を勧請した際に妙法院の僧・昌雲が初代別当に任命される)
遅くとも16世紀末頃までには現在地である法住寺殿跡地に移転 - 創始者
- [開基] 伝・伝教大師最澄
- 宗派
- 天台宗
- 山号
- 南叡山
- 本尊
- 普賢菩薩
- 寺紋
- 札所等
- 神仏霊場巡拝の道 第119番
- アクセス
- 駐車場
- 北口より参拝用駐車場
└自家用車15台 60分無料 - 拝観料
- 大人 800円
中高生 400円 - お休み
- 特別拝観時のみ一般公開(春または秋の特定期間)
- 拝観時間
- 9:00~16:00
- 住所
- 〒605-0932
京都府京都市東山区妙法院前側町447 - 電話
- 075-561-0467
- FAX
- 075-561-6698
- 公式サイト
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妙法院の地図
妙法院のみどころ (Point in Check)
京都市東山区妙法院前側(まえかわ)町、七条通を東へ進み、鴨川に架かる七条大橋を渡った七条通の東の突き当たり、智積院のすぐ北隣、また南北に走る東大路通を挟んで京都国立博物館の東側に位置する天台宗寺院。
青蓮院(しょうれんいん)、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称される門跡寺院で、山門五箇室門跡の一つでもあり、新日吉(いまひえ)門跡、皇后門跡とも呼ばれています。
この点「門跡(もんぜき)」とは皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指し、塀の外壁に描かれた5本の白い横線がその格式の高さを示しています。
そして有名な三十三間堂(蓮華王院)および方広寺(大仏)を管理下に置いていることでも知られる寺院です。
近世以前の寺史は多くの説が見られるなど錯綜しているとのことですが、青蓮院、三千院などの天台宗の他の門跡寺院と同様に、比叡山上にあった延暦寺の一坊(小寺院)をその起源とし、延暦年間(782~806)、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)の開創と伝わり、一説には比叡山西塔にあった坊「本覚院」が起源とされますが、確証はないといいます。
妙法院という名称は、平安後期、比叡山西塔・本覚院の快修が本覚院の別称として用いたのがはじまりといい、その後、快修の甥にあたる昌雲(しょううん)がその後を継ぎ、1160年(永暦元年)に洛中に移転されたと考えられています。
1160年(永暦元年)10月16日、後白河上皇が「平治の乱」で焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として法住寺殿の造営に取り掛かると、その鎮守社として紀州熊野本宮より熊野大神を勧請して新熊野社(現在の新熊野神社)を、また比叡山東坂本の日吉大社より皇居守護の山王七社の神々である日吉山王(ひえさんのう)を勧請し新日吉社(いまひえしゃ)(現在の新日吉神宮)を創建します。
後白河上皇の護持僧として篤い帰依を受けていたとう昌雲は、この時に新日吉社の初代の検校職(別当)となり、法住寺殿に接して里坊を開き「妙法院」と号したといい、その後、法住寺や1164年(長寛2年)に法住寺殿内に鎮守寺として建立された蓮華王院(三十三間堂)と合わせて管掌させたといい、これにより寺基が確立したため後白河法皇は妙法院において中興第1世とされています。
更に鎌倉初期の1202年(建仁2年)、昌雲の後を継いだ門弟・実全が第66世の天台座主となると、綾小路小坂(現在の京都市東山区・八坂神社の南西付近)に移転して「綾小路房」と呼ばれる自坊を構えるとともに正式に「妙法院」の号を立てたともいわれています。
また同じく鎌倉初期の1209年(承元3年)3月、高倉天皇の皇子で後に第76世・天台座主となる第18代門主・尊性法親王(そんしょうほっしんのう 1194-1239)が出家し妙法院の実全の下に入寺すると、以来幕末まで代々法親王が住持する「門跡寺院」となります。
そして法住寺・蓮華王院の法灯を嗣ぎ「新日吉門跡」「皇門跡」「綾小路門跡」などと称された妙法院は、梶井門跡(三千院)や青蓮院門跡とともに「天台三門跡」の一つにも数えられるようになりました。
その後、1467年(応仁元年)の「応仁の乱」の兵火で焼失するも、1586年(天正14年)に豊臣秀吉が法住寺跡に方広寺を創建し大仏の造立した際、その経堂(きょうどう)として寄進を受けて再建。
更に1614年(慶長19年)に有名な「方広寺鐘銘事件」によって豊臣・徳川両家の紛争が生じた後、豊臣家の滅亡後は徳川家康もその復興に努め、1615年(元和元年)に常胤法親王(じょういんほうしんのう 1548-1621)を迎え現在地に移転しています。
この点、現在地には元々は1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の信任の厚かった天台僧・道澄が開基した照高院があったといいます。
江戸時代には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)などの管理を任されるとともに、寺領一千六百十三石を与えられ、22万余坪という広大な寺域を有し栄え、また幕末には三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が長州藩士とともに西下し京都から長州に逃れる「八月十八日の政変(七卿の都落ち)」の舞台にもなっています。
明治時代の廃仏毀釈でその境内は大幅に縮小されたものの、本堂や庫裏、宸殿、護摩堂、唐門、大書院などの堂宇を有し、現在も三十三間堂(蓮華王院)および方広寺(大仏)をその管理下に置いています。
中でも庫裏は桃山時代の1595年(文禄4年)頃の建造で、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養を行ったときの遺構と伝えられ、本瓦葺入母屋造の豪壮かつ重厚感溢れる建物で国宝に指定。
通常は庫裏は僧侶らが食事や入浴、休息などの日常生活を送る所であり、これが国宝に指定されるのは極めて珍しいといえます。
また本堂には象の上に仏様が乗る姿が印象的な普賢菩薩が本尊として祀られているのが珍しく「普賢堂」と呼ばれているほか、狩野派の障壁画で飾られている江戸初期の大書院および大玄関が重要文化財に指定されており、更に国宝の秀吉に宛てられた「ポルトガル国印度副王信書」など多数の寺宝を有しています。
境内は一部は無料で拝観が可能となっていて、本堂(普賢堂)や大玄関、庫裏などの建物の外観を見学することが可能ですが、庫裏が入口となっている建物内については通常は非公開となっていまる。
毎年の11月頃に行われる「秋の特別公開」および2014年(平成26年)から始まった5月14日の「五月会」にて範囲を限って公開されています。
妙法院の施設案内
境内
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案内板
東大路通沿いの壁面
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表門
通用門
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門番所
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庫裏
屋根の上に小棟
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参道
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大玄関
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玄関
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明治天皇妙法院行在所の石標
1868年(慶応4年)と1880年(明治13年)の2回行幸されたという
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枝垂桜
大玄関の向かい
滝桜系
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唐門
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七卿落碑
紅葉
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宸殿
室町以降の歴代天皇、皇后、中宮が奉祀されている
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龍華蔵
宝物庫
宸殿の右手に見える
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普賢堂(本堂)
本尊・普賢菩薩像を安置
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本堂前庭
東側
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白龍弁財天
本堂前庭
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新館庫裡
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寺務所
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収蔵庫
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古文化財保存協会
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WC
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駐車場
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石柱門
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車両口
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内部(特別拝観エリア)
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内部拝観入口
庫裏から入る
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石庭
庫裏の裏(東側)
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大書院
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大書院南庭
桃山城を模した庭園
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護摩堂
本尊は平安初期、897年(貞観9年)作の木造不動明王立像
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聖天堂
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白書院
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奥書院
玉座、御座之間
明治天皇の御成り御殿
伝・円山応挙の襖絵
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奥庭
名勝「積翠園」名残りの池泉庭園(南隅辺)
大部分は旧武田病院(現フォーシーズンズホテル)
平安期の小松殿(平重盛邸)の遺構とも伝わる旧蹟
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瑠璃の手水鉢
豊臣秀吉寵愛の品
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関連
周辺
妙法院の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 5/14
五月会
2014年(平成26年)より開催されている本尊・普賢菩薩の縁日
9:00~9:30 法華三昧(普賢堂)
9:30~16:00 願い散華奉納(普賢堂)
9:30~16:00 書院無料公開(庫裏)
14:00~15:00 講演・楽器奉奏 天台宗玄清法流「琵琶法要」(白書院)
9時半頃から本堂前にて整理券配布、9時50分頃~10時40分頃まで法要
11時から内部拝観
伽藍内部の拝観は普賢堂(本堂)のほか、庫裏→大書院→護摩堂→奥書院(御座之間・玉座)→奥庭
[公式]- 11月
秋の特別公開
伽藍内部の拝観は普賢堂(本堂)のほか、庫裏→大書院→護摩堂→龍華蔵(宝物館)→宸殿