安養寺(吉水草庵)
安養寺(吉水草庵)とは?(基本データ)
- 名前
- 安養寺(吉水草庵)(あんようじ(よしみずそうあん))
- エリア
- 祇園・東山
- ジャンル
- 正式名
- 慈円山大乗院安養寺
- 建立・設立
- 延暦年間(782-806)の開創
1175年(承安5年)、法然がこの地に棲み「吉水草庵」を建て、以後30数年の間、浄土宗布教の拠点とする
1206年(建永2年)の「承元の法難」にて法然が四国へ配流の後、青蓮院末寺として中興
至徳年間(1384-87)に再興され時宗に改められる - 創始者
- [開基] 伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう)
[吉水草庵] 法然
[中興] 慈鎮(じちん)(慈円)
[再興] 国阿(こくあ) - 宗派
- 時宗
- 山号
- 慈円山(円山)
- 本尊
- 阿弥陀三尊立像
- 寺紋
- 隅切角に三(時宗の宗紋)
- アクセス
- 駐車場
- 門前に2~3台駐車可能
- 拝観料
- 志納
- お休み
- 無休
- 拝観時間
- 8:00~17:00
- 住所
- 〒605-0071
京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 - 電話
- 075-561-5845
- FAX
- -
- 公式サイト
- 安養寺(吉水草庵跡) 親鸞聖人を訪ねて(御旧跡巡拝ガイド)
安養寺(吉水草庵)の地図
安養寺(吉水草庵)のみどころ (Point in Check)
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町、円山公園の北東側にある時宗寺院。
山号は慈円山、本尊は阿弥陀三尊立像。
平安初期の延暦年間(782-806)、平安京の鎮護のため伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう 767-822)により天台宗の寺院としての開創されたのがはじまり。
その後、平安後期の1174年(承安4年)、浄土宗の宗祖・法然(ほうねん 1133-1212)は43歳の時に専修念仏を会得し、比叡山を下り、西山広谷を経て法垂窟より清らかな水が湧き出ることからその名がついたという「吉水」の地に庵を結び、以後30数年もの間、同地は念仏の根本道場、浄土宗布教の中心地とされました。
この法然の吉水入りにあたっては慈円大僧正として第62代・天台座主も務めた青蓮院門跡第3代門主・慈鎮(じちん 1155-1225)の尽力があったと考えられています。
この点、慈鎮(慈円)は北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」や新井白石の「読史余論(とくしよろん)」とともに日本の三大史論書といわれている「愚管抄」を著したことで有名なほか、「小倉百人一首」の第95番に前大僧正慈円として「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」の歌が収録されているなど歌道にも優れ、密教にも通じ、弟子として法然、親鸞を輩出しており、とりわけ親鸞は9歳の時に慈鎮を剃髪の師として青蓮院で出家得度しています。
そして関白・九条兼実(くじょうかねざね 1149-1207)の弟にあたり、兼実は法然の熱心な信奉者であったという関係性から、兼実の依頼を受けて「吉水草庵」の建立に尽力したと考えられています。
またその後1201年(建仁元年)には浄土真宗の祖として知られる親鸞(しんらん 1173-1263)も、29歳の時に比叡山を下山して聖徳太子建立と伝わる六角堂で百日参籠を行い、聖徳太子による夢告に従って、吉水の法然を訪ねて入信しています。
このことから同寺は法然・親鸞両上人念仏発祥の地「吉水草庵」の旧跡として、浄土宗および浄土真宗にとっても特別な場所とされています。
1206年(建永2年)、法然が74歳の時にそれまでの仏教勢力による専修念仏の弾圧事件である「承元の法難」で土佐国、続いて讃岐国へと配流(親鸞も越後国へ配流)とされると、その後は慈鎮(慈円)がその復興に着手して青蓮院の末寺とし、境内に法華懺法を修する道場として大懺法院を建立するなどして寺勢の回復に努めたことから「吉水僧正」とも呼ばれ、また山号の「慈円山」も慈円の名から取られたものだといいます。
その後は次第に衰微するも、南北朝時代の1385年(至徳2年)に時宗の僧で各地を遊行し、京都に入って東山の正法寺や双林寺で布教にあたった国阿(こくあ 1314-1405)によって再興され、時宗に改められています。
その後、明治維新を迎えると「神仏分離令」「廃仏毀釈」の一環として、1871年(明治4年)に発令された「上知令」により八坂神社や、長楽寺、双林寺などとともに政府によって境内地の一部が没収され、1886年(明治19年)12月には京都市で最も古い公園として「円山公園」が開設されますが、これに伴って寺域は大きく縮小を余儀なくされ、現在は境内に本堂(阿弥陀堂)と書院、境内から約50m南に下がった飛び地境内にある弁天堂を残すのみとなっています。
このうち飛び地境内にある「弁天堂(吉水弁財天)」は慈鎮(慈円)が寺の鎮守とするために比叡山から吉水の畔に弁財天を勧請したもので、技芸上達の祈願の信仰が厚いとい、他にも法然上人が使ったという古井戸「吉水の井」があるほか、弁財天堂の裏にある多宝塔は「慈鎮塔(慈鎮和尚多宝塔)」と呼ばれ、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦の2仏が並座する鎌倉初期の一品で、国指定の重要文化財に指定されています。
ちなみに円山公園の「円山」という名前は、元々周辺一帯は平安時代から「真葛ヶ原(まくずがはら)」と呼ばれていたものが、江戸時代に安養寺の山号である「慈円山」より慈の文字を外して「円山(まるやま)」と呼ばれるようになったことにちなんだものだといい、同寺が円山公園の名称の元にもなっているともいえます。
また安養寺の境内には江戸時代には勝興庵正阿弥(しょうこうあん しょうあみ)・長寿庵左阿弥(ちょうじゅあん さあみ)(長寿院とも)・花洛庵重阿弥(からくあん じゅうあみ)・多福庵也阿弥(たふくあん やあみ)・延寿庵連阿弥(えんじゅあん れんあみ)・多蔵庵春阿弥(たぞうあん しゅんあみ)(源阿弥とも)と、「阿弥」の名がつく6つの住坊「六阿弥坊」が設けられていたといい「円山の六坊」と呼ばれました。
そのいずれもが後に東山西麓の起伏を活かし変化に富んだ林泉美の庭園と卓越した眺望を持つ楼閣を構え、民衆へ席を貸す「貸座敷」を営んでいたといい、詩歌や連俳、歌舞、遊覧酒宴の名所地として行楽客や文人墨客に愛されたといい、その盛況の様子は「都名所図会」「都林泉名勝図会」などにも見られるといいます。
このうち弁財天の前にあったという「重阿弥」は1702年(元禄15年)7月28日に赤穂浪士が「円山会議」を開き、吉良上野介を討つための敵討ちの血判状を交わした場所としても有名です。
その後明治維新とともに六坊は廃寺とされ、春阿弥は明治初期の京都における殖産興業の指導者として知られる明石博高により金閣に模した三層楼の温泉場が建築され1973年(明治6年)頃に「吉水温泉」として開設。
また也阿弥は1879年(明治12年)に長崎の井上万吉によって買い取られた後、連阿弥・重阿弥を合併し後に京都で「ホテル」と称した最初のものといわれる「也阿弥ホテル(也阿弥楼とも)」となり、1892年(明治25年)には正阿弥を買い取って拡張し、1899年(明治32年)に一度は火災で焼失するもその後、西洋風のホテルとして再建されました。
しかし1906年(明治39年)に再び火災を起こし、吉水温泉とともに全焼したことから円山公園の拡張の機運が高まるとともに再建の許可が下りず、1908年(明治41年)に也阿弥ホテルと吉水温泉はいずれも閉業となっています。
このため六坊の中で現在唯一残っているのは老舗料亭として残る「左阿弥」のみで、明治維新以降太平洋戦争終結時までは重要な国策を決める「御前会議」にも使われ有栖川総督宮や山県有朋が滞在し、 江戸後期を代表する漢学者・頼山陽や日本画家・土田麦僊などからもこよなく愛されたといい、志賀直哉の「暗夜行路」や川端康成の「古都」にもその名が登場するといいます。
安養寺(吉水草庵)の施設案内
境内
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門前石段
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寺号標
「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵 慈円山安養寺」と刻まれる
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境内案内図と駒札
門前石段手前左
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総門
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石段
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「都をどり功労者 尾田木ゆう墓所」の石標
石段参道の途中にある
花街祇園甲部の春のおどり「都をどり」創設者の一人
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本堂(阿弥陀堂)
本尊・阿弥陀三尊立像を安置
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庫裡
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銀杏
本堂右手、玄関前
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書院
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桂樟蹊子句碑
露けしや真葛ヶ原に石の階
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石仏
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南無阿弥陀仏の石碑
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本堂裏からの市街地の眺望
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橋と門
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聖天堂への石段
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聖天堂への参道
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「大聖歓喜天尊」の石碑
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手水舎
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聖天堂
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石段
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参道
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休憩所
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参道
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参道
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石段
総門の南側にある飛び地境内の入口
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鳥居
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参道
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手水舎
参道左
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吉水弁財天
慈鎮(慈円)が寺の鎮守として比叡山より勧請
「円山の弁天さん」と呼ばれ、祇園花街の人々から技芸上達の信仰を集める
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御供所
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吉水の井
法然上人閼伽の水
弁天堂の傍らにあり「吉水」の地の名前の由来となった
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滝
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慈鎮塔(慈鎮和尚多宝塔)
鎌倉期の多宝塔で国の重文
弁天堂の背後にある高さ3mの石造宝塔
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円山公園への道
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円山公園弁天堂前公衆トイレ
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左阿弥
かつての「阿弥」のつく6つの塔頭「六阿弥(正阿弥・春阿弥・庭阿弥・連阿弥・也阿弥・左阿弥)」のうち、唯一残存
1615年(元和元年)に織田信長の弟・織田有楽斎の次男・頼長が出家して雲生寺入道道八となってここに住み、父・有楽斎とともに茶の道を楽しんだといい、道八の墓碑は邸内に残っているという
1849年(嘉永2年)からは料亭となっており、披露宴や御祝膳、法事などで利用されているという
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周辺
関連
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正法寺
霊山護国神社の南にある時宗寺院
最澄により創建された天台宗寺院「霊山寺」がはじまりで光孝天皇・宇多天皇の勅願寺となる
時宗の僧・国阿が1383年(永徳3年)に再興し「正法寺」と改め時宗寺院に
江戸時代は時宗十二派の「霊山派(現・国阿派)」の本寺とされたが、明治以降は衰退し、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみ
安養寺は再興後はその正法寺の末寺となる
また山号の「霊山(りょうぜん)」は一帯の地名「霊山」の由来にもなっている
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双林寺
正式には「沙羅双樹林寺」
最澄が天台宗寺院として創建し、平安後期には歌人・西行などが隠棲した
1384年(至徳元年)に国阿によって再興し時宗道場が置かれたがその後衰退
江戸時代に高台寺や大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上し縮小
明治初年に天台宗に復し、円山公園の造営のために上地され、現在は本堂と飛び地境内にある花月庵(西行堂)が残るのみ
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長楽寺
同じ時宗寺院
元々は最澄が天台宗寺院として創建し、室町初期に国阿により時宗寺院に改宗
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