京京都市中京区新京極通三条下る桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山。
飛鳥時代に奈良の地にて三論宗として開創し、改宗と幾度かの移転を経て、現在は京都の中心地を南北に通る有数の繁華街の一つ「新京極通」に伽藍を構えています。
創建ははるか飛鳥時代まで遡り、667年(天智天皇6年)に天智天皇の勅願により恵陰が開創。
鎌倉時代成立と推定される縁起「誓願寺真縁起」によれば、本尊である丈約6.5mの「阿弥陀如来像」は665年(天智天皇4年)に天智天皇の命により、大和の国の賢問子・芥子国という親子の彫刻師によって造られたもので、像の完成とともに安置するお堂の建立となり、3年の年月を費やして七堂伽藍が完成し「誓願寺」と名付けられたといいます。
そしてその位置は、最近の研究によって奈良の西大寺や薬師寺にほど近い近鉄「尼ヶ辻」駅付近にあったことが判明しています。
元々は三論宗の寺院でしたがいつしか改宗し、法相宗の興福寺の所有となり、平安後期には浄土宗の宗祖・法然が興福寺の蔵俊より譲り受けて浄土宗となり、以来念仏の大道場として信仰を集めるようになります。
更には法然上人の高弟・善恵房証空(西山国師)が入ったことでその流れを汲む寺院となり、1876年(明治9年)には浄土宗西山派の北本山となります。
そして1919年(大正8年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派、そして浄土宗西山深草派の3つに分裂していますが、この際に誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山に。
この点、西山深草派は立信(円空)が西山国師から受け継いだ誓願寺に加え、深草の地に建立した真宗院にて西山国師の教えの上に更に自らの考えをも取り入れた教えを確立し広めたものであることから、誓願寺は「法然上人」「西山国師」「立信上人」と続く浄土門の聖地といえる場所となったのでした。
前述のように創建当初は奈良にありましたが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の京都市上京区元誓願寺通小川西入る)への移転を経て、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の寺町整備に際し現在の三条寺町(現在の新京極)の地に移転。
その際、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)とその実家にあたる京極家の助力を得て広大な敷地を得て堂塔が再興されることとなり、木食応其の勧進もあって1597年(慶長2年)3月11日の落慶法要には高野衆50人が参列したといいます。
1780年(安永9年)に刊行された「都名所図会」によると当時は6500坪の境内に三重塔のほか七堂伽藍がそびえ、塔頭寺院も18か寺を数える壮大なものであったと記されていますが、明治維新とそれに続く「廃仏毀釈令」、更には歓楽街「新京極」を作るために寺地を公収されるなどし、境内は縮小し現在の形となりました。
「新京極通」の新設は天皇の東京行幸や「禁門の変(蛤御門の変)」で衰退しかけた京都の街を復興しようと時の京都府参事・槇村正直が1872年(明治5年)より進めた当時の一大プロジェクトの一つで、これによって三条から四条の間に一大歓楽街が作られることになりますが、この際に誓願寺は6500坪のうち4800余坪の土地を上地という形で没収されることになったのです。
また誓願寺は京都の中心地に位置していために戦乱等の影響を受けやすく、天明、弘化、元治年間の3度の大火を含めてこれまで10回もの火災に遭っていますが、その都度多くの信者たちによって再建されており、現在の「本堂」は鉄筋コンクリート製で1964年(昭和39年)に建てられたものです。
その本堂には京洛六阿弥陀の随一といわれる本尊の「阿弥陀如来」、更に本堂右手の脇壇には弘法大師の作と伝えられ、かつては長金寺(一言堂)の本尊であったという「十一面観音菩薩」も安置されています。
この点「十一面観音菩薩」は古くより通称「一言観音(ひとこと観音)」と呼ばれ、何でも一言で願いが叶うとして信仰を集め、洛陽三十三観音霊場(第2番)や、新西国霊場の札所にもなっています。
また「街の中にあるお寺」「暮らしに密着した信仰の場」として人々に愛され続け、とりわけ女性から深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、国の重要文化財で現在は国立京都博物館に寄託されている鎌倉期作「誓願寺縁起絵」や室町時代の「洛中洛外図屏風」には、誓願寺を訪れる女性の姿が象徴的に描かれています。
歴史上の人物としては清少納言、和泉式部、前述の秀吉の側室・松の丸殿などが有名で、清少納言は才女として知られていましたが、誓願寺で髪を落として比丘尼(びくに)となり仏道に入り余生を送ったといわれています。
また和泉式部については娘の小式部に先立たれた後、娘の菩提を弔うため誓願寺に48日間参籠。
念仏三昧の生活に入った後遂には出家し、関白・藤原道長より小御堂(現在の誠心院)を譲り受けてめでたく往生することができたと伝えられています。
ちなみにその関係性を物語るように世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」には、和泉式部が歌舞の菩薩となって登場するのですが、このことから能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇を集めるようになり、江戸時代よりその道を志す多くの人が誓願寺へ参詣したとも伝えられています。
また第55世住職の安楽庵策伝日快(1554-1642)は、僧侶としてだけでなく茶人・文人・咄家として優れた人物であったといい、松永貞徳・小堀遠州といった当時一流の文化人たちとも交際を深めたほか、多くの笑い話を集めた著作「醒睡笑」8巻は名高く、「落語の元祖」と呼ばれており、その策伝上人の卓越した遺徳を偲ぶとともに、これにあやかるため、境内には芸道上達を祈願する「扇塚」が祀られていて、これらのことから現在誓願寺は「芸道上達の寺」「落語発祥の寺」として広く信仰を集めています。
毎年10月初旬の日曜には「策伝忌」を営まれ、追慕の法要と共に奉納落語会も開催されるほか、現在においても説教から発達した講談、落語、漫才などの関西地方の芸人たちがこの寺で練習会を営んでいるといいます。
そしてこれらの縁もあって誓願寺ではコンサートや映画に関するイベントなどもよく開催されています。
その他に誓願寺で有名なものとしては山門の外にある正面に「迷子のみちしるべ」と刻まれた石柱があります。
右側には「教しゆる方」、左側には「さがす方」と彫ってあり、まだ警察制度のなかった時代に人通りの多い門前にて紙をこの石に貼って人探しが行われていた名残りだといわれています。