京都市西京区嵐山中尾下町、桂川に架かる渡月橋南側の岩田山にある嵐山モンキーパークの入口にある松尾大社の境外摂社。
元々は櫟谷神社と宗像神社という別々の神社だったものが合併してできた神社で、それぞれ櫟谷神社は「奥津島姫命(おきつしまひめのみこと)」、宗像神社は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」を祀っています。
この点、市杵島姫命は水の神様として知られる宗像三女神の一柱で、三女神は福岡県の宗像大社に祀られて九州を中心とした海上交通の守護神として古くから信仰を集めているほか、平安時代には平家の海上交通の守り神として平清盛が創建した広島の厳島神社に祀られたことでも知られています。
また七福神の弁財天とも同一視される神様で、このことから「嵐山弁天社(嵐山の弁天さん)」とも呼ばれて信仰を集めています。
一方、奥津島姫命は「日本書紀」では市杵島姫命と同体とされるほか、同じく宗像三女神の一柱の多紀理毘売命(たきりびめのみこと)と同体とされますが、同社では市杵島姫命と同体とのことで、異名同神、つまり二社とも市杵島姫命が祀られているといいます。
両社ともに創建の詳しい経緯は不詳ですが、漁業・航海を生業とする海上民族である阿曇一族が淀川、桂川を遡行してこの地に入ったのではないかと推測されていて、創建の時期は3世紀末の大和朝廷の成立以前ともいわれています。
あるいはまた668年(天智天皇7年)ないし大宝年間(701-704)に、筑紫国(福岡県)の宗像大社から勧請されたものとも伝えられています。
そしてこの水の女神がに勧請されたのは、嵐山を流れる「桂川(大堰川)の水運の安全」を祈願するためと考えられています。
桂川は上流の保津峡が狭いため、大雨になると保津峡に溜まった水が一気に下流へと流れ、しばしば氾濫したいいますが、神社の鎮座地は保津峡を出た桂川の急な流れが緩やかな流れに変わる場所で、この地を聖地とみなし地主神として祀ったのが神社のはじまりと考えられています。
そして櫟谷神社は平安初期の848年(嘉祥元年)に従五位下、868年(貞観10年)に正五位下の神階を授けられ、927年(延長5年)成立の「延喜式」神名帳にもその名が見える式内社である一方、宗像神社は式内社ではないものの、現在の造幣局にあたる葛野鋳銭所に近い位置にあり、870年(貞観12年)に新しい鋳銭が宗像・櫟谷・清水・堰・小社の五神に奉納されていたことが「三代実録」に記されており、ともに由緒ある神社として崇敬を集めていました。
ちなみに神社の勧請には古くよりこの地を治めていた渡来系氏族で、松尾大社を総氏神とする秦氏の力が働いたと推定されており、早くから松尾大社の末社として位置付けられていたようで、室町初期の「松尾神社境内絵図」では、櫟谷社・宗像社両社は独立社殿ながら隣接して描かれているといいます。
その後、両社は1878年(明治11年)に松尾大社の摂社として扱われることになり、現在は櫟谷・宗像の両社は相殿として同じ社殿内に祀られ、ともに松尾七社の一社として毎年5月に開催される松尾大社の「神幸祭・還幸祭」においては、両社の祭神が下京区西七条の松尾大社御旅所に滞在すます。
また櫟谷神の方は松尾・月読とともに松尾三社にも数えられています。
ご神徳は平安時代には葛野に鋳銭所(造幣局)があり、新しい鋳銭は必ず奉納されていたことから「福徳財運」の神様とされたほか、河川の女神であることから「水難除け」の守護神、更に女性の神様が祀られているところから、近年は「縁結び」にもご利益があるとされ人気を集めています。
「櫟谷」とは一説には当社すぐ西側の小谷を指すともいわれるように、大堰川のほとりから少し上がった高台に鎮座し、境内からは風光明媚な桂川の景色が広がっています。
また境内は広くはないものの赤い社殿が映え印象的で、また嵐山の渡月橋近くという立地の良さから、観光客が立ち寄ることも多い神社です。
文化財としては女神像2躯と神像形1躯の神像が当社に伝えられ、他の松尾大社の摂末社の神像と併せて京都府指定文化財に指定されており、これらは現在は松尾大社の宝物館に所蔵・展示されています。