山王宮日吉神社
山王宮日吉神社とは?(基本データ)
- 名前
- 山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)
- エリア
- 宮津・伊根
- ジャンル
- 建立・設立
- [杉末神社] 572年(敏達天皇元年)
[日吉神社] 不詳(平安中期~後期)
江戸時代に「山王宮」が宮津藩の守護神とされ、主神として祀られるとともに、式内・杉末神社は摂社として宮津西地区の守り神に - 祭神
- 大山咋神(おおやまくいのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神) - ご利益
- 災難除去・厄除け、安産祈願・子育て
- 例祭
- 5/15(山王祭(宮津祭))
他に赤ちゃん初土俵入(10月体育の日)などが知られる - 神紋・社紋
- アクセス
- 駐車場
- あり(無料)
- 拝観料
- 無料
- お休み
- 無休
- 拝観時間
- 境内自由
└祈祷 9:00~16:00(予約制) - 住所
- 〒626-0005
京都府宮津市宮町1408 - 電話
- 0772-22-3356
- FAX
- 0772-22-0303
- 公式サイト
- 山王宮日吉神社
山王祭(宮津祭) 山王宮日吉神社
山王宮日吉神社の地図
山王宮日吉神社のみどころ (Point in Check)
京都府宮津市宮町、丹鉄宮津駅より北西へ約1.5km、宮津城下西部の標高120mの滝上山の南東麓、松ヶ岡と呼ばれる宮津城下ならびに宮津湾を望む丘の上をに鎮座する神社。
平安時代より宮津郷の総産土神として崇敬を集め、地元では「さんのうさん」、「ひよしさん」と呼ばれて親しまれている神社です。
本殿右隣にある境内摂社の「杉末神社」から続く宮津城下町で最古の神域を有する神社で、社記によれば杉末神社は572年(敏達天皇元年)にこの地に鎮座したと記され、平安初期の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳」にも式内社として宮津で唯一登載されている歴史を有する神社です。
遥か昔の宮津の地に人が住み着いた頃から宮津の守り神として崇められ、奈良時代の平城宮跡の木簡に記された地名である「宮津」、すなわち「宮(神社)のある津(船の着く所)」という地名の由来にもなっているといいます。
その後、平安中期~後期に杉末神社の境内に比叡山延暦寺の鎮守神としても知られる近江坂本(滋賀県大津市坂本)の「日吉大社」より山王の神、すなわち大山咋神(おおやまくいのかみ)および大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神)を勧請し末社として迎えたのが「山王宮」のはじまりと考えられています。
そして江戸時代に入ると「山王宮」が宮津藩の守護神とされ、神域の中心に主神として祀られるとともに、式内・杉末神社は摂社として宮津西地区の守り神となります。
この点「宮津藩」は1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの功によりそれまで丹後の地を治めていた細川忠興が豊前小倉藩へ加増・転封となると、京極高知(きょうごくたかとも 1572-1622)が徳川家康から丹後一国を与えられ丹後藩が成立した後、高知の3人の子により丹後藩が三分割されて宮津藩、舞鶴藩(田辺藩)、峰山藩の丹後三藩が成立して生まれた藩で、その後、宮津藩の京極家が1666年(寛文6年)に改易されると幕府直轄・永井家・阿部家・奥平家・青山家と目まぐるしく藩主が入れ替わり、1758年(宝暦8年)に本庄松平家が藩主となってからはようやく落ち着き、幕末まで存続しました。
これら歴代の宮津藩主の寄進によって本殿や幣殿・拝殿のみならず、神輿や灯籠などに至るまでが次々と再建されて境内が整備されるとともに、5月15日の例祭「山王祭」が江戸時代には藩祭と定められ、城を挙げての大祭として町衆のみならず藩の武士までが行列に参加していたといい、「宮津祭」の別名はこのことから生まれたものだといいます。
その後も「山王社」の名で親しまれ、明治期の神仏分離で「日吉神社」に改めらて仏教色は排除されるも、現在も地元では「山王社」で呼ばれて多くの人々に親しまれています。
ご神徳としては日吉の神が「災難除去」の神として悪霊を遠ざけ災難より万物を守る魔除けの象徴として知られているほか、その神使でもある猿が昔から安産の象徴とされていた犬と同じように元気に子を産み、健康に育てていくことにちなみ、古くから「安産・子育て」の神様として信仰を集めていて、山王宮でも一年を通し数多くの参拝者が丹後一円より安産の祈願に訪れるといいます。
現在の境内には本殿を中心に摂・末社を含めて8つの社が存在しており、中でも江戸初期に再建された本殿は与謝郡一帯に分布する社殿形式の最古の例として京都府指定文化財に指定されているほか、他の摂・末社の多くも文化財として登録されています。
また神域には樹齢800年を超える御神木の「椎」のほか、ともに宮津市の天然記念物に指定されている樹齢400年以上で時の藩主・永井尚長が植樹命名したとの記録が残る「含紅桜(がんこうざくら)」や漱玉亭の「大さざんか」などの巨木が数多く点在しており、神域全域が「文化財環境保全地区」にも指定されています。
この他にも境内の北西に位置する「漱玉亭跡庭園」は、背後の滝上山山麓の自然林を借景に滝石組による人工の瀑布を設けた庭園で、時の宮津藩主・京極高広が作庭し、その後藩主となった永井尚長が拡張した歴史を有し、宮津市の名勝に指定されています。
行事としては毎年春の5月15日に行われる例祭の「山王祭(宮津祭)」がもっとも有名。
この点、宮津の旧城下町は西堀川を境界として東町と西町に大きく分けられ、東地区が「和貴宮神社」、西地区が「山王宮日吉神社」の氏子となっていて、山王宮日吉神社の祭礼は春、和貴宮神社の祭礼は秋に行われていましたが、第二次世界大戦後に両者の例祭は同じ5月15日にほぼ同時進行で行われることとなり、2つの祭を合わせて「宮津祭」と呼ぶようになりました。
そして山王宮日吉神社の祭典の方は「神輿」の巡行を中心に神楽「浦安の舞」や「浮太鼓」「太神楽」など数多くの見どころがあり、多くの見物客で賑わいますが、中でも「浮太鼓」は漁師町で完成され今日まで伝承されてきたもので宮津市の無形文化財に指定されている伝統芸能です。
またこの他にも秋の10月体育の日に式内社・杉末神社の例祭(西祭)に合わせて行われる「赤ちゃん初土俵入」も有名で、幼児が化粧まわしを身に付けて見えない神を相手に相撲を取り、神聖な土俵の砂に尻を付くことで健康に育つとされる珍しい神事で、各種メディアにもよく取り上げられて注目を集めます。
山王宮日吉神社の施設案内
境内
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道標
「山王橋」バス停のある交差点の北西角にある
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社号標
山王橋バス停の交差点から西へ進んだ先の左側に建つ
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神橋と鳥居
「山王宮」の扁額が架かる
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京都丹後鉄道宮豊線の高架
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駐車場入口
石段の左手
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参道石段
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社務所
石段上がって右
宮司家
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ご神木の椎(シイ)
石段上がった先の参道中央
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手水舎
ご神木の椎の左手
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由緒書
手水舎の右隣
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石段
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境内参道
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含紅桜
石段上がってすぐ右手
宮津市天然記念物
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土俵
参道途中右側
赤ちゃん初土俵入が開催される
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神馬舎
参道途中右側、土俵の右奥
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山神社(さんじんじゃ)
参道途中右側、境内北側の石段を上がった奥にある
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歳徳神社(としとくじんじゃ)
参道途中右側、神馬像の右奥
大歳神
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大さざんか
参道途中右側、神馬像の右隣にある山茶花の木
宮津市天然記念物
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神馬像
庭園の右
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漱玉亭跡庭園
境内北西にある
「宮津府志」によれば、宮津城主・京極高広は1647年(天保4年)に社を下の段に移して跡地に茶屋を建て、その後茶屋は取り払われたが、永井尚長の時代に再び普請を起こし永井家の霊を祀り別荘を建てた
永井氏が改易されると荒廃するも、次の奥平昌春が1702年(元禄15年)にに再び社殿を現在地に戻したという
境内北西の一角に見られる泉水を取り囲み、山麓に滝組として巨石を配してを造った庭園はその京極高広の作で、泉水傍らの「漱玉(そうぎょく)」と刻まれた石は藩主・永井尚長の筆という
その後庭園は荒廃して漱玉の石のみが残ったが、山王社家の牧氏は居室の近くに一亭を構えて「漱玉亭」と名づけたといい、庭園跡は現在もその一部が残っている
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船魂神社(ふなだまじんじゃ)
杉末神社の右(北側)
猿田彦命
府登録文化財
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杉末神社(すぎのすえじんじゃ)
本殿の右(北側)
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石灯籠
拝殿の前
形が独特
藩主・本庄宗秀が寄進した八角石灯籠
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拝殿
1834年(天保5年)の再建で京都府登録文化財
「武神」の扁額
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幣殿
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本殿
1688年(貞享5年)に宮津藩主・永井尚長により再建
京都府指定文化財
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恵比寿神社(えびすじんじゃ)
本殿の左(南側)
事代主命
府登録文化財
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琴平神社(ことひらじんじゃ)
恵比寿神社の左隣(南側)
大物主命
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致命壮烈社(ちめいそうれつしゃ)
本殿左奥
諸国の英霊
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神輿庫
参道すぐ左手
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祓所
拝殿の左(南側)
旧神輿蔵跡
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鳥居
如願寺へと続く
関連
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如願寺
境内の南西側に隣接
高野山真言宗寺院
1024年(万寿元年)に比叡山延暦寺の僧・皇慶により開創
1506年(永正3年)の「如願寺跡合戦」で荒廃するも、江戸時代に宮津藩主・永井尚征(ながいなおゆき)に祈願所として加護を受けて大いに栄えたという
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滝上児童公園
境内の南東側に隣接
公衆トイレあり
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波路公民館
山王祭(宮津祭)における旧御旅所
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宮津市役所前
山王祭(宮津祭)における御旅所
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漁師町御旅所
漁師町会館斜向い
周辺
山王宮日吉神社の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1月
初詣
境内の年徳神社は「お正月さま」とも呼ばれ、一年の幸せを与えてくれる歳神さまを祀る
- 2/3
節分祭
9~21時
21時より古い御神札・御守の焚上祭、夕刻から焚上祭の終了まで竹とうろう「あかり」
人形神事、厄除け祈願のほか、有料にて古いアルバムや人形・結納品などどうしても処分できない思い出の品のお焚き上げ
13時よりおしるこの無料接待も- 5/13~5/15
山王祭(宮津祭)
江戸時代には宮津藩の公式な祭とされ、城下の町衆のみならず武士までもが参加したことから「宮津祭」の俗称でも親しまれ、神輿の巡行を中心に威儀物行列や郷土芸能である「浮太鼓」、伊勢神楽の流れを汲む「太神楽」など数多くの見どころがある
このうち「浮太鼓」は漁師町で完成され今日まで伝承されてきたもので宮津市の無形文化財
また昭和初期までは各町にご神体を乗せた「山屋台」と子供歌舞伎を演じる「芸屋台」と呼ばれる山車(曳山)が屋台巡行を行っていたといい、江戸後期の「山王祭礼図絵馬」には26基が描かれているが、和貴宮神社の例祭が同じ5月15日に変更されたことで東部5町(宮本・万町・本町・魚屋・新浜)の参加が途絶えたため中断となり、現在は宮本町の「万歳鉾」のみが不定期に巡行し子供歌舞伎を披露している(直近は2008年)
5/13
山王宮太神楽(8町による輪番)
5/14
浮太鼓(漁師町)
5/15
8:30 手水の儀(ご神木前)
8:45 修祓の儀(境内南祓所)
8:50 例祭
9:10 浦安の舞
9:30 山王神楽(太神楽)奉納(獅子舞)
10:40 浮太鼓社参(宮司家)
11:00 神幸祭(御霊写し)
11:15 神輿発御
境内を出て一直線に進み、宮津湾の漁師町浜で祈願をした後、宮津の各所を廻りながら旧大手門から入城し、宮津湾対岸の波路まで約12kmを進む
13:00頃 波路公民館(旧御旅所)到着・祈祷
14:00頃 波路より引き返した神輿が宮津市役所前に到着、祈祷・再び浦安の舞の奉納
15:30頃 漁師町御旅所(漁師町会館斜向い)到着・神事の後1時間ほど休憩した後、氏子区域を巡行、浮太鼓到着、太神楽
19:00頃より「お宮入り還御の儀」
神輿が漁師町会館前から石井家までの50mほどを駆け足で幾度も往復する「練り込み」の後、最大の見どころとなる還御の上り坂、石段を登り切ると拝殿に入って三度勢い良く上げられ、その瞬間に明かりが消され、浄闇の中で御霊が戻される- 10/10
杉末神社 例祭(西祭)
境内にある式内社・杉末神社の例祭
- 10月体育の日
赤ちゃん初土俵入
杉末神社の例祭(西祭)に合わせて10月体育の日に開催
幼児が化粧廻しを付けて見えない神を相手に相撲を取り、神聖な土俵の砂に尻を付くことで健康を授かるとされている
江戸初期に地元力士により奉納花相撲が執り行われていた影響を受け、江戸中期に氏子中の有力な家々が屋号などをもとにした化粧廻しを作って息子たちを土俵に上げたのがはじまりといわれ、昔使われた化粧廻しは旧家に残されていたり、一部が神社に寄贈され保管されている
遠方からの参加者も含め毎年約300名前後の参加者があり、マスコミなどでもよく紹介される
月並行事
- 毎月1・15日
月次祭
- 戌の日
安産祈願
古くより妊娠5か月目の戌(いぬ)の日に帯の着け始めをする風習があり、5か月目の戌(いぬ)の日より前の良い日を選んで安産祈願を行うとよいといわれる