京都府木津川市山城町綺田(かばた)、京都府南端の木津川市にあるJR棚倉駅より北へ徒歩約20分の所にある真言宗智山派の寺院。
寺院のある「綺田(かばた)」の地は古くは美称である「神(かむ)」と織物を意味する「幡(はた)」からなる「蟹幡(かむはた)郷」という名前で呼ばれ、その名の通り織物に携わる渡来系民族が多く住んでいた地で、寺は飛鳥時代後期(白鳳時代末期)の680年前後に渡来人・秦氏の一族である秦和賀(はたわか)が創建したと伝わり、「紙幡寺(かむはたじ)」「加波多寺」などといわれていたといいます。
後に奈良時代を代表する僧の一人である行基(ぎょうき 668-749)により民衆の厚い信仰を集めるようになり、方二町の境内地を有する大寺院であったといい、その後平安末期の説話集「今昔物語集」の巻16第16話や鎌倉時代に編纂された説話集「古今著聞集」に「蟹の恩返し」の伝承が収録されているおとから、遅くとも平安後期には「蟹満寺」と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになったものと考えられています。
「今昔物語集」に収録されている「蟹の恩返し」とは、観音様を厚く信仰していたある一人の娘が村の子どもたちに食料として捕えられていた蟹を哀れに思い、もらいうけて川に放し助けてあげました。
その後その娘が大蛇に求婚されるという危難に遭い困っていたところ、蟹が一族を率いて大蛇を倒し恩返しをしたという筋書きで、その時に身代りになって死んだ多くの蟹と退治された蛇を葬り、その上に堂を建立して観音像を祀ったのが蟹満寺のはじまりだといいます。
寺は江戸中期の1711年(正徳元年)に智積院の僧・亮範によって中興、本堂は1759年(宝暦9年)に建て替えられた後、近年になって老朽化のため250年ぶりに建て替えられることとなり、2010年(平成22年)4月に落慶法要が執り行われ現在に至っています。
境内には「蟹の恩返し」の縁起にちなみ、香炉や浄財箱、本堂扁額、蟇股、屋根瓦、灯籠など、至る所に蟹モチーフの紋様が施され、蟹にちなんだ授与品も多く取り扱っているといいます。
そして境内の一番の見どころが本堂に安置されている国宝の本尊・釈迦如来坐像で、白鳳時代に造られ高さ約2.4m、重さ2.2tの巨大な金銅仏で、仏像によく見られる丸まった髪の毛の「螺髪(らほつ)」や眉間の中央にあって光を放つ「白毫(びゃくごう)」をつけず、ふっくらとした人間味を帯びた相好で、手の指の間には生きとし生けるものをすべて悟りの世界へ救い上げることができるよう水かきのような「曼網相」を具えている姿が特徴的。
同様の時期に造られた初期の丈六金銅仏は飛鳥大仏、現興福寺仏頭、薬師如来坐像のみという、大変貴重な仏像の一つで、1953年(昭和28年)11月14日に国宝に指定されています。
その由緒や伝来がはっきりせず、制作年代やなぜこの地にこのような巨大な仏像が建てられたかなどについては謎に包まれている部分も多く、現在も科学的な調査が進められています。
その他にも行事として毎年4月18日に行われる「蟹供養放生会」が有名。
前述の「蟹の恩返し」の縁起にちなんで全国のカニ料理店や旅館関係者など200名が参列し、読経の後、命の尊さに感謝しながら沢蟹を放流するほか、当日は国宝・釈迦如来坐像が御開帳されます。