阿弥陀寺(織田信長公本廟)
阿弥陀寺(織田信長公本廟)とは?(基本データ)
- 名前
- 阿弥陀寺(織田信長公本廟)(あみだじ(おだのぶながこうほんびょう))
- エリア
- 京都御所
- ジャンル
- 正式名
- 蓮臺山 惣見院 阿弥陀寺(れんだいさん そうけんいん あみだじ)
- 建立・設立
- 1555年(天文24年)
- 創始者
- 玉誉清玉
- 宗派
- 浄土宗 知恩寺末寺
- 山号
- 蓮台山(れんだいさん)
- 本尊
- 阿弥陀如来
- 寺紋
- 札所等
- 京都四十八願寺巡拝(洛中四十八願寺) 第16番
- アクセス
- 駐車場
- 参拝者用駐車場約20台(無料)
マイクロバス可、大型バス許可必要 - 拝観料
- 境内自由
├堂内 1000円(6/2のみ)
├水塔婆志納
└朱印 500円 - お休み
- 6/2のみ堂内拝観可
境内拝観・本廟参拝・水塔婆供養・朱印は年中無休
6/2以外の堂内特別回向については事前に申込・予約が必要 - 拝観時間
- 9:00~16:00
- 住所
- 〒602-0802
京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14 - 電話
- 075-231-3538
- FAX
- 075-231-3069
- 公式サイト
- 阿弥陀寺 浄土宗
上京区の史蹟百選/阿弥陀寺 京都市上京区
阿弥陀寺(織田信長公本廟)の地図
阿弥陀寺(織田信長公本廟)のみどころ (Point in Check)
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町にある浄土宗の寺院で、百万遍知恩寺の末寺。
山号は蓮台山で、院号は織田信長の法名である総見院で、本尊は丈六の阿弥陀如来。
戦国大名・織田信長の墓であると正式に確認された「信長公本廟」であり、信長・信忠親子の墓の他に森蘭丸の墓などもある織田家ゆかりの寺院です。
1555年(天文24年)、玉誉清玉が近江国坂本(現在の滋賀県大津市)に創建したのがはじまり。
その後清玉が織田信長の帰依を得、西ノ京蓮台野芝薬師西町(京都市上京区今出川大宮東)に移転すると、織田家の菩提寺として当時は塔頭13か院、八町四方の伽藍を構えていたといいます。
また正親町天皇(おおぎまち)は清玉に深く帰依していたため、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに勅願寺とされました。
1582年(天正10年)6月2日未明、有名な「本能寺の変」が起こった際には、織田家と深い親交のあった清玉は信長の宿所であった本能寺の異変を察知し直ちに駆けつけるが間に合わず、近習の武士たちに遺骸を託され、その場で信長の遺体を火葬して荼毘に付し骨を持ち帰り墓を作ったとされています。
その後明智光秀の陣を訪ねて戦闘の停止と、嫡子・織田信忠や森蘭丸など、事件当日に本能寺や二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養し、墓を建てたといわれていて、現在も信長をはじめ本能寺の変で討死した百余名の合祀位牌が現存し、供養が続けられています。
1585年(天正13年)、秀吉の寺町造成に伴って寺域を縮小する形で蓮台野から現在地に移転。
1917年(大正6年)には信長に正一位を追贈する「位階追陞」の儀式のために宮内庁が調査に入り、阿弥陀寺の信長公墓が廟所(信長公本廟)であると確認され勅使の来訪がありました。
本堂には織田信長、信忠父子の木像等を安置するほか、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園きえん、俳人蝶夢ちょうむ、近年では女優の森光子の墓があることでも知られています。
「京都四十八願寺巡拝」の第16番札所にも数えられていますが、現在は6月2日の「信長忌」のみ堂内拝観が可能で、併せて各種寺宝が公開されます。
阿弥陀寺(織田信長公本廟)の施設案内
境内
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山門
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織田信長公本廟の石標
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参道
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鐘楼
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本堂
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鎮守社
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石仏
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蝶夢の句碑
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帰白院
塔頭
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本坊(庫裏)
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玄関
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芭蕉の句碑
渡り廊下手前右
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渡り廊下
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手洗所
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墓所入口
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参道
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手水所
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織田信長信忠討死衆墓所の石標
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織田信長公本廟所
織田信長・織田信忠墓
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森三兄弟ほか家来衆の墓
本廟所の左
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織田家祖先の墓
本廟所の手前右側
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清玉上人の墓
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俳僧・蝶夢(ちょうむ)の墓
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皆川淇園(みながわきえん)の墓
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森光子の墓
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駐車場
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