京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町にある浄土宗の寺院で、百万遍知恩寺の末寺。
山号は蓮台山で、院号は織田信長の法名である総見院で、本尊は丈六の阿弥陀如来。
戦国大名・織田信長の墓であると正式に確認された「信長公本廟」であり、信長・信忠親子の墓の他に森蘭丸の墓などもある織田家ゆかりの寺院です。
1555年(天文24年)、玉誉清玉が近江国坂本(現在の滋賀県大津市)に創建したのがはじまり。
その後清玉が織田信長の帰依を得、西ノ京蓮台野芝薬師西町(京都市上京区今出川大宮東)に移転すると、織田家の菩提寺として当時は塔頭13か院、八町四方の伽藍を構えていたといいます。
また正親町天皇(おおぎまち)は清玉に深く帰依していたため、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに勅願寺とされました。
1582年(天正10年)6月2日未明、有名な「本能寺の変」が起こった際には、織田家と深い親交のあった清玉は信長の宿所であった本能寺の異変を察知し直ちに駆けつけるが間に合わず、近習の武士たちに遺骸を託され、その場で信長の遺体を火葬して荼毘に付し骨を持ち帰り墓を作ったとされています。
その後明智光秀の陣を訪ねて戦闘の停止と、嫡子・織田信忠や森蘭丸など、事件当日に本能寺や二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養し、墓を建てたといわれていて、現在も信長をはじめ本能寺の変で討死した百余名の合祀位牌が現存し、供養が続けられています。
1585年(天正13年)、秀吉の寺町造成に伴って寺域を縮小する形で蓮台野から現在地に移転。
1917年(大正6年)には信長に正一位を追贈する「位階追陞」の儀式のために宮内庁が調査に入り、阿弥陀寺の信長公墓が廟所(信長公本廟)であると確認され勅使の来訪がありました。
本堂には織田信長、信忠父子の木像等を安置するほか、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園きえん、俳人蝶夢ちょうむ、近年では女優の森光子の墓があることでも知られています。
「京都四十八願寺巡拝」の第16番札所にも数えられていますが、現在は6月2日の「信長忌」のみ堂内拝観が可能で、併せて各種寺宝が公開されます。