伏見インクライン跡(墨染発電所)
伏見インクライン跡(墨染発電所)とは?(基本データ)
- 名前
- 伏見インクライン跡(墨染発電所)
(ふしみいんくらいんあと(すみぞめはつでんしょ)) - エリア
- 伏見・桃山
- ジャンル
- 建立・設立
- 1890年(明治23年)、琵琶湖第一疏水が完成
1894年(明治27年)、鴨川運河が完成し鴨川夷川から鴨川東岸を南下し伏見堀詰町で伏見城の外堀(濠川)と結ばれる
1895年(明治28年)、墨染インクラインが完成し水位に高低差のあった鴨川運河と外堀が結ばれる
1908年(明治41年)10月、琵琶湖第二疏水が着工、1912年(明治45年)4月に完成
1912年(明治45年)11月、第二疏水計画の一環として夷川発電所とともに建設が計画され着工、1914年(大正3年)5月竣工 - アクセス
- 駐車場
- なし
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
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- 住所
- 〒612-0053
京都府京都市伏見区桃山町丹下14 - 電話
- -
- FAX
- -
- 公式サイト
- 疏水さんぽ [ 伏見さんぽ ] 琵琶湖疏水記念館
琵琶湖疏水のご紹介 京都市上下水道局
琵琶湖疏水の発電施設群の解説シート 土木学会選奨土木遺産
伏見インクライン跡(墨染発電所)の地図
伏見インクライン跡(墨染発電所)のみどころ (Point in Check)
「琵琶湖疏水」とは?
「琵琶湖疏水(びわこそすい)」は琵琶湖の水を京都市へ流すため明治初期に作られた全長11.1kmの水路。
滋賀県大津市からトンネルや水路を開削して京都市まで水を引くという一大プロジェクトで、京都への飲料水の供給や水運、水力による発電、灌漑を目的として計画され、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、1912年(大正2年)に完成した第2疏水を総称したものを指します。
滋賀県大津市三保ヶ崎の琵琶湖取水点から長等山をトンネルで抜け、山科北部の山麓をめぐり(山科疏水)、蹴上に出ると約36mの落差をインクライン(傾斜鉄道)で下り、蹴上の南禅寺船溜から西へと流れて平安神宮の南を通り(岡崎疏水)、夷川ダム、夷川発電所を経て鴨川へと出ます。
そして鴨川合流点から下流は鴨川沿いに南下していき、深草を経て伏見で濠川につながり、そのまま宇治川に放流されます。
このうち南禅寺船溜から鴨川合流点までを「鴨東運河」と呼び1890年(明治23年)に完成、それより下流は「鴨川運河」と呼ばれ1894年(明治27年)に完成しています。
この主流以外にも蹴上を分岐点とする「疏水分線」があり、南禅寺水路閣から北へ、哲学の道沿いに若王子から銀閣寺道まで流れた後、そこから西に転じて、松ヶ崎(松ヶ崎疏水)、吉田山の東北を経て、最後は堀川へと合流します。
「禁門の変」で京都市内の大半が焼け、また明治初期に東京に都が移り衰退しかかった京都の復興を図るため、第3代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち 1836-1916)が琵琶湖の豊かな水源に着目し計画。
主任技師として選任されたのは工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの青年技師・田辺朔郎(たなべさくろう 1861-1944)で、 卒業論文「琵琶湖疎水工事の計画」で世界的に脚光を浴び、わずか21歳で工事責任者として抜擢され、後に近代日本の土木工学の祖といわれる存在となった人物です。
建設には当時の金額で約125万円、京都府の年間予算の約2倍という膨大な費用が投じられ、まず現在「第一疏水」と呼ばれている部分が1885年(明治18年)の着工の後、1894年(明治27年)に完成。
琵琶湖疏水工事は当時の日本における重大な建築工事は全て外国人技師の設計・監督に委ねていた時代にあって、全て日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業であったといいます。
用いられた資材はレンガ約1400万個、木材300万才(300万立法尺)、セメント3万樽、ダイナマイト類7000貫目に及んだと記録されていて、このうちレンガはすべて国産のもので、京都府が疎水建設のための煉瓦製造工場を建設し供給されたといい、工場跡であることを示す石碑が地下鉄御陵駅の出入口付近に建てられています。
この琵琶湖疏水の主な目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車を動力とした紡績業、そして潅漑用水や防火用水などでしたが、水力発電の有利性も注目されるようになり、1889年(明治22年)に日本初の水力発電所として「蹴上発電所」が建設され、1891年(明治24年)に送電を開始すると、この電力を用いて1895年(明治28年)には京都~伏見間で日本初となる電気鉄道「京都電気鉄道(京電)」の運転も始められ、京都の近代化と文明の発展に大いに貢献することとなります。
更に水力発電の増強と水道用水確保のため、第一疏水の開通から20年後の明治後期から大正初期にかけて「第二疏水」も整備されることとなり、1908年(明治41年)に工事がはじまり、1912年(大正2年)に完成していますが、流路はほぼトンネル(暗渠)となっているため、流れを実際に目にすることはないといいます。
琵琶湖疏水が開通し、水力発電が採用されたことで、新しい工場が生まれ、路面電車も走り出し、京都は再び活力を取り戻すとともに、今日の京都のまちづくりの基礎が出来上がったといえます。
琵琶湖疏水は今日においても京都に琵琶湖の水を供給し続け、科学技術等の発達によってその役割は減ったものの、蹴上浄水場へ供給する上水道の水源とという重要なインフラとしての役割を担い続けていますが、これとは別に建設から100年以上が経過し、その歴史的価値に着目し新たな観光資源としての役割も担うようになっています。
明治における日本の土木技術の水準の高さを示す画期的な事業であり、第1~第3トンネルの各出入口、第一・第二竪坑、日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡11号橋)やコンクリートアーチ橋(山ノ谷10号橋)、そして蹴上インクラインと南禅寺水路閣の計12か所が1996年(平成8年)に「国の史跡」に指定。
2020年(令和元年)には「京都と大津を繋ぐ 希望の水路 琵琶湖疏水」として文化庁選定の「日本遺産」にも認定されています。
また1989年(平成元年)8月9日には竣工100周年を記念し、疏水の意義を1人でも多くの方に伝え先人の偉業を顕彰するとともに、将来に向かって発展する京都の活力の源となることを願って、琵琶湖疏水のすべてが分かる資料館として「琵琶湖疏水記念館」も開館されました。
そしてその遺構はレンガ造りのレトロな雰囲気の近代建築であるものが多く、南禅寺の「水路閣」や「哲学の道」など新たな景勝地も誕生しているほか、近年は「蹴上インクライン」や「山科疏水」なども桜の名所として有名なスポットとなっています。
また2003年(平成15年)3月に京都府・大阪府・滋賀県の琵琶湖・淀川流域で開催された「第3回世界水フォーラム」の記念行事として開催されたのをきっかけとして始められ、近年は春の風物詩としてすっかり定着した岡崎疏水での「岡崎さくら・わかば回廊 十石舟めぐり」や、一時期は休止していた琵琶湖疏水の船運事業を2018年(平成30年)春に67年の歳月を経て新たに観光船として復活させた「びわこ疏水船」など、琵琶湖疏水を船で巡る乗船体験も楽しめるようになっています。
「伏見インクライン跡(墨染発電所)」について
「墨染インクライン(伏見インクライン)」は、京都市伏見区桃山町、琵琶湖疏水の大津から宇治川に至る20.2キロの舟運ルートの途中、水路落差のある2か所、蹴上と伏見に敷設した傾斜鉄道(インクライン)の一つ。
蹴上にある蹴上インクラインの傾斜距離が延長581.8mで世界最長なのに対し、伏見インクラインは延長290.8m、水路の高低差15m、長さ30m弱とやや小さい規模です。
この点、琵琶湖疏水は琵琶湖から滋賀県大津市、京都市の山科、もう一つのインクラインのある蹴上、岡崎を経て鴨川に注ぎ、そこからは鴨川運河として鴨川左岸を南へ下った後、三条から七条あたりまでは暗渠となり、再び地上に出てからは東福寺から伏見稲荷、深草、藤森、墨染の各駅辺りでは京阪電車とほぼ平行する形で南へと流れていき、最後は墨染ダムに注いだ後、伏見インクラインを経て再び暗渠となり、豊臣秀吉が伏見城の築城時に外堀として開削した濠川へと合流して最後は宇治川へと注ぎます。
このうち1890年(明治23年)に大津市と京都蹴上(けあげ)を結ぶ「琵琶湖第一疏水」が開通されたのに続いて、鴨川合流点から下流の「鴨川運河」が1892年(明治25年)に着工し1894年(明治27年)に完成。
しかし鴨川運河と濠川との間には高低差があったため、両川を連結するため落差15mのインクライン(傾斜鉄道)が造られることとなり、1895年(明治28年)に完成。
完成を受けて鴨川を南下した船は伏見堀詰町で伏見城の外堀である濠川とつながれることとなり、完成した当時、1日に100隻もの船を上げ下げしていたと伝えられています。
現代に入り船運の利用の減少とともに1943年(昭和18年)8月にインクラインは運行中止となり、1959年年(昭和34年)には国道24号線改築のために廃止となり、現在インクライン跡には国道24号が通っています。
そして蹴上のインクラインが形態保存されたのに対し、1960年(昭和35年)にレールも撤去されて跡形もなくなっていますが、濠川側から鴨川運河方面の坂を見上げると2つの川の落差を感じることができます。
一方でインクラインの建設に伴って疎水と濠川の落差を利用した発電を目的とした「墨染発電所」が建設されることとなり、1912年(明治45年)5月に起工の後、1914年(大正3年)5月に運転開始。
認可最大出力は2,200kW、最大使用水量は20.00立方メートル毎秒で有効落差は14.31mあり、この発電所で発電された電気は当初は日本最初の「チンチン電車」として伏見~京都間を走った市電に供給されたといい、現在も関西電力の発電所として現役で稼働しており、ここで造られた電気は、深草変電所に送られ、伏見界隈などに送電されているといいます。
そしてこの墨染発電所は2001年(平成13年)に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、蹴上発電所や夷川発電所とともに日本国内の歴史的建造物のうち土木構造物に特化し与えらえる「土木学会選奨土木遺産」にも認定されています。
伏見インクライン跡(墨染発電所)の施設案内
鴨川運河
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冷泉放水路
「鴨川運河」の起点
運河には古くは1919年(大正8年)に造られたものから、道路整備に伴って新しく架け替えられたものも含めて30の橋が存在している
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仁王門放水口
川端御池より北へ約50m
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川端御池~塩小路(暗渠部分)
鴨川運河はここから塩小路まで鴨川の東岸(左岸)を並行するが、川端御池付近から塩小路までは1989年の京阪本線の地下化及び三条駅~出町柳駅(京阪鴨東線)の開設に伴い川端通の下を通る暗渠になっている
この間閘門は8つ、仁王門(御池通)・孫橋(三条通)・三条(団栗通)・四条(四条通)・松原(松原通)・五条(五条通)・正面(正面通)・七条(七条通)
緊急用放水口として冷泉放水路・仁王門放水口・塩之小路放水口・三ノ橋放水口がある
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塩小路橋東詰(塩之小路放水口)
塩小路通に架かる塩小路橋の東詰南側で御池から暗渠となっていた疏水の流れはここで再び開渠となる
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JR琵琶湖線・湖西線・東海道新幹線の高架
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一之橋
1924年(大正13年)11月の竣工
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JR奈良線のトラス橋梁
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岸上橋跡
九条通のやや北の東岸にある三洋化成工業へ通じる橋だったというが現存せず橋台のみが残る
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疏水二ノ橋
1993年(平成5年)6月の竣工
九条通の高架北側に架かる
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九条通の高架
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柿本橋
1994年(平成6年)3月の竣工
九条通の高架南側に架かる
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御所之橋
1991年(平成3年)3月の竣工
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中央橋
1978年(昭和53年)3月の竣工
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松風橋(しょうふうばし)
1985年(昭和60年)2月の竣工
東詰に歯科医院・歯科技工所向けに歯科器材の製造販売を行う企業・松風(しょうふう)がある
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三之橋
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三ノ橋制御所(三ノ橋放水口)
東山区福稲上高松町、三之橋そばにある
京都市上下水道局の水道部疏水事務所
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上高松橋
1919年(大正8年)の竣工
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高松橋
十条通に架かる
1922年(大正11年)に建造されたが本町下高松通の拡幅に伴って2014年(平成26年)に解体、2016年(平成28年)に新しい橋に架け直された
橋の東詰南側に「高松橋ひろば」東詰北側に京阪鳥羽街道駅がある
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高松橋ひろば
旧高松橋の名残りである橋脚のマークと石製高欄、石製親柱と選奨土木遺産認定プレートがある
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京阪本線橋梁
十条通の南で京阪が疎水を渡る
ここから京阪本線と並行してまっすぐ南へと流れていく
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相深橋
1924年(大正13年)の竣工
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横縄橋
1923年(大正12年)の竣工
伏見稲荷駅のやや北に架かる
橋脚にある六芒星のマークは疏水臚発電事業の管理などを行っていた水利事務所や電気局の水利徽章として用いられていたもだという
横縄橋の他にも綿森橋、野田橋、下極楽橋、北新橋、出雲橋にも同じマークがあるほか、師団橋には五芒星マークが残る
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ススハキ橋
1925年(大正14年)の竣工
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深草橋
1994年(平成6年)8月の竣工
京阪龍谷大深草駅の東口前に架かる
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砂川橋
1973年(昭和48年)3月の竣工
府道201号(中山稲荷線)に架かる
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綿森橋
1923年(大正12年)9月の竣工
橋脚に六芒星のマークがある
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町通橋
1924年(大正13年)7月に竣工
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野田橋
1956年(昭和31年)12月の竣工
橋脚に六芒星のマークがある
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師団橋
1974年(昭和49年)10月の竣工
第二軍道に架かる橋
橋脚に五芒星マークがある
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きとろ橋
1924年(大正13年)7月に竣工
京阪藤森駅の東口前に架かる
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堀田橋
1928年(昭和3年)7月の竣工
京阪藤森駅の東口前に架かる
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名神高速道路の高架
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極楽橋
1922年(大正11年)11月の竣工
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下極楽橋
1923年(大正12年)8月の竣工
府道35号(大岩街道)に架かる
橋脚に六芒星のマークがある
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中之郷橋
車道橋は1928年(昭和3年)、側道橋は1967年(昭和42年)に建造され、2020年7月から2021年2月にかけて補修補強工事が行われている
府道35号(大岩街道)に架かる
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七瀬川との交差
京阪藤森駅の南で七瀬川との交差がある
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藤ノ森橋
1925年(大正14年)12月の竣工
橋の南東に藤森神社がある
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高田橋
1924年(大正13年)12月の竣工
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北新橋
1923年(大正12年)9月の竣工
橋脚に六芒星のマークがある
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墨染橋
1964年(昭和39年)10月の竣工
大和街道に架かる
東詰に京阪墨染駅
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出雲橋
1974年(昭和49年)3月の竣工
墨染発電所北側の上流にある
橋脚側面に六芒星のマーク
橋のすぐ南で流れが2つに分かれ、右側は取水口へ、左側は墨染船溜となる
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伏見インクライン跡・墨染発電所
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鴨川運河の眺望
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出雲橋からの眺望
発電所北側の上流にある
橋脚側面の六芒星のマークは京都市旧水道局章
星型のマークは他にもいくつかの橋で見られる
橋のすぐ南で流れが2つに分かれ、右側は取水口へ、左側は墨染船溜となる
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疏水西側の小道
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除塵スクリーン
出雲橋を渡ってダムの北西側
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発電用水路(取水口)と墨染発電所
インクラインの建設に伴い疎水と濠川の落差を利用した発電を目的に建設され、1912年(明治45年)5月に起工、1914年(大正3年)5月に運転開始
桜名所で現役の発電所でもある
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伏見インクラインの上ダム(墨染ダム)
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疏水東側の小道
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伏見インクライン跡(国道24号)
伏見の舟運を支えた傾斜鉄道(ケーブルカー)
鴨川運河と濠川とは高低差があったため、両川を連結するため落差15mのインクライン(傾斜鉄道)が造られることとなり、1895年(明治28年)に完成
鴨川を南下した船は伏見堀詰町で伏見城の外堀である濠川とつながれるることとなった
国道24号線と京町通りの交差点北東の角にある京都市上下水道局疏水事務所伏見分所の門の奥に傾斜している道路が見える
ここで暗渠に入って西へ流れ、次に顔を出す時は壕川となる
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京都市上下水道局疎水事務所伏見分所
国道24号と師団街道(府道35号)の交差点北東側
一般公開していないので入れない
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伏見インクライン前バス停
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伏見インクライン下ダム
近鉄伏見駅の東方、伏見区堀詰町で暗渠が終わり、開渠となって濠川として南へと流れていく
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濠川
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濠川
元は豊臣秀吉が伏見城の築城時に外堀として開削した旧伏見城の外堀
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近鉄京都線の橋梁
橋台がレンガ造り
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津知橋
下ダムすぐ南の久我へ抜ける府道202号にかかる
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伏見新放水路
濠川からから西へ放水される水は西へと流れていき東高瀬川に合流する(東高瀬川は濠川の西を並行して宇治川に注ぐ)
大水害を経て造られた放水路
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伏見制水門
1931年(昭和6年)の完成
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上板橋
この橋を過ぎると、濠川は数回クランクしながら南下していく
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常盤橋
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いものや橋(鋳物屋橋)
堀詰町
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丹波橋
丹波橋通にかかる
この辺りから酒蔵がそこここに散見
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毛利橋
毛利橋通にかかる
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大手橋
大手筋通にかかる
西詰に坂本龍馬 避難の材木小屋跡の碑、西へやや進んだ所に菜の花の眺望で知られる松本酒造がある
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であい橋
ここで宇治川派流を分派
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旧高瀬川
松本酒造と東高瀬川堤の間にある運河で西丹波橋から三栖まで開渠
であい橋の南付近で濠川に注ぐ
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三栖洗堰
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三栖閘門
宇治川に注ぐ
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周辺
関連
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蹴上発電所
インクラインの落差の有効活用法として作られた日本初の事業用水力発電所
アメリカ視察でヒントを得たという田辺朔郎の提言により1891年(明治24年)に稼働を開始し、水力発電によって得られた電力は工業生産や鉄道などに利用され、京都の再生に多大な貢献を果たした
1942年(昭和17年)からその管理は京都市から関西電力に移管
入口の扁額は久邇宮邦彦の揮毫で「亮天功(てんこうをたすく)」と刻まれている
他に「水力発電事業発祥之地」の石碑が建つ
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夷川発電所(夷川ダム)
1890年(明治23年)に琵琶湖疎水の第一疏水が竣工し、翌年に水力を利用した我が国最初の事業用水力発電所である蹴上発電所が建設されて以来、年々増加する電力需要に対応するため
「第二疏水」が作られることとなり、1912年(明治45年)に竣工、これらの計画の一環として下流の伏見発電所(墨染発電所)とともに新設された
3.4mというわずかな落差で発電できる街中にある日本最小の発電所で現在も関西電力の発電所として機能
対岸の中島には琵琶湖疏水事業に尽力し京都の再生を推進させた第3代京都府知事・北垣国道の銅像が建つ
隣接する夷川船溜(夷川ダム)は「岡崎疏水十石船」の折り返し地点となっている
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