京都市左京区岡崎東天王町、平安神宮の北側の丸太町通沿いに鎮座する神社。
一帯は以前は畑の広がるのどかな光景が見られた「岡崎村」があった場所でした。
この点「岡崎」という地名の由来は吉田山から、真如堂、栗ヶ原や金戒光明寺のある紫雲山まで続いていた岡の先(崎)という意味で名付けられたといわれています。
ちなみに現在「岡崎」の地は明治時代に創建された平安神宮を中心に岡崎公園が整備され、美術館や図書館、動物園などの数々の文化施設やみやこめっせやロームシアター京都などの施設も集積し、京都の一大文化ゾーンを形成。
そして近くには琵琶湖疎水が流れ、緑も豊かな一方で京都市の中心からのアクセスも良いことから、都会のオアシスとして親しまれているエリアです。
その岡崎一円で古くから産土神として地元の氏子たちの信仰を集めてきたのが当社ですが、その創建は794年(延暦13年)、桓武天皇による「平安京遷都」の際に王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社のうちの一つで、都の東にあるところから「東天王(ひがしてんのう)」と称し、「方除け・厄除」の神として信仰を集めました。
「東天王」の名は現在も通称名として親しまれているほか、周辺一帯の町名にもなっています。
その後いったん焼失するも、869年(貞観11年)に清和天皇の勅命により社殿を再建し、祭神として播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市北方)より祇園牛頭天王(すさのおのみこと)などを勧請し、悪疫が鎮まるように祈願したといいます。
現在は祭神として
速素盞鳴尊(すさのをのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
およびその御子の8柱の神、すなわち三女五男の八柱御子神(やはしらのみこがみ)
を祀っています。
また1178年(治承2年)には祭神・素箋鳴尊(スサノオノミコト)が八柱の御子神をもうけられた由緒から、高倉天皇の中宮の安産祈願の幣帛を賜ったことより「子授け・安産」の神として信仰されるように。
更に祭神がヤマタノオロチを退治し奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)と結ばれたことから「縁結び」の神としても信仰を集めるようになりました。
創建の経緯から皇室の崇敬厚く、各時代において官幣を賜り、中でも後醍醐天皇は1319年(元応元年)に当社を再建し、正一位の御神階と御神宝を賜っています。
また幕府とも関係が深く、1452年(享徳元年)に第8代将軍・足利義政が社殿を修造しています。
都の東(卯)の方位にあり、かつては付近一帯が野ウサギの生息地であったことから、兎(ウサギ)が氏神様の神使とされ、現在も神社のシンボル的存在となっています。
またウサギが多産であることから「子授け・安産祈願」のご利益を求める参拝者に人気を集めています。
この点、境内の本殿前には縁結びの「狛うさぎ」が一対、また拝殿手前の「手水舎(手水屋形)」には黒御影石で創られた「子授け兎」がおり、像に水をかけてお腹をさすり祈願すると子宝に恵まれると伝わり、安産の御利益で有名で、その他にも本殿灯籠、斎館の欄間などにウサギの意匠た多数見られるほか、可愛らしいうさぎをモチーフにしたお守り、絵馬、おみくじなどの授与も行っており、特に女性の参拝者に好評を博しています。
深い木々に覆われひっそりとした境内には本殿などのほか、境内には全国にも珍しい「龍神様(龍神さん)」と呼ばれる「雨ノ社」が鎮座していますが、これは元々は如意ヶ岳(大文字山)の山中にあった祠で、雨乞いの神として崇敬され、雨の恵みにより五穀豊穣が祈願されているほか、進学・学問成就の神様、さらには目の病気治癒のご利益も伝えられているといいます。
京都十六社朱印めぐり
行事としては岡崎一帯の氏神様として、地域の人々が参加する様々な神事や祭典が行われており、9月には敬老の日の神事やお彼岸の祖霊祭などが行われるほか、能舞台もあり、薪能なども地元の人々の楽しみの一つとなっています。
また10月16日の「氏子大祭」では、氏子町へ子どもみこしが12~3基と稚児行列が繰り出し、ほのぼのとした雰囲気の中で行列を繰り広げるほか、境内に飾られる数基の剣鉾も見ものです。
この他にも縁結び・子授け・安産のご利益にあやかって当社にて神前結婚式を挙げるカップルも多く、「鶴泉殿」のほか、より厳かな雰囲気の立ち込める、本殿でも挙式が行われています。