京都市東山区五条橋東6丁目、五条通と東大路通の交差する東山五条の東にある浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん 1173-1263)の墳墓の地で、「日野誕生院」「角坊(すみのぼう)」とともに西本願寺の飛び地境内。
「御伝鈔(本願寺聖人伝絵)(ごでんしょう(ほんがんじしょうにんでんね))」によると、親鸞聖人は鎌倉時代の1263年(弘長2年)11月28日に弟・尋有(じんう)の住坊「善法坊(現在の角坊)」において90歳で亡くなり、東山今熊野の延仁寺(えんにんじ)、現在の御荼毘所で荼毘に付された後、鳥辺野の北の「大谷」の地に埋葬されて笠塔婆が建てられました。
その後その墳墓は1272年(文永9年)11月に親鸞聖人の末娘にあたる覚信尼(かくしんに 1224-83)によって吉水の北辺、現在の知恩院山門の北側に位置する崇泰院付近に移され、廟堂が建立されるとともに聖人の御影像が安置され(大谷影堂)、その後1321年(元応3年)に本願寺第3代・覚如(かくにょ 1270-1351)により本堂などの建物が造営されるなどし寺院化されたものが「本願寺」です。
本願寺はその後中世には他宗派や織田信長との抗争などにより越前吉崎、河内出口、京都山科、大阪石山と幾度かの破却・移転を繰り返した後、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の寄進によって大坂天満から堀川通に面した七条堀川に移転し、更に江戸初期の1602年(慶長7年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の宗教政策により、東本願寺と西本願寺の東西に分かれて現在に至っています。
そして廟堂については第8代・蓮如の時代の1465年(寛正6年)に起きた「寛正の法難」により破却されるまで約200年間、諸国の門弟や同行によって護持され、その後は「大谷道場」として護持されつつも破却と復興を繰り返した後、本山が現在の西本願寺の堀川七条に落ち着いた後の1603年(慶長8年)、第12代・准如の時代に知恩院の境内拡張に際し徳川幕府の命によって親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山の現在地に移転され、この地を「大谷」と呼ぶようになったのが現在の大谷本廟のはじまりです。
更にその2年後の1605年(慶長10年)には仏殿が建立され、1661年(寛文元年)には祖墳を南谷の現在地に移転するとともに、九条・西光寺の願いによってその祖廟の外に墳塔を営むことが許可され、これが「大谷墓地」のはじまりとされていて、以降は宗祖・親鸞の遺徳を偲ぶ数多くの門信徒がこの地に墓地を求め、現在の境内には約1万3千基の墓と約3万2千基の納骨堂が立ち並んでいるといい、お盆やお彼岸の時期を中心に多くの人々が墓参りに訪れます。
また行事については報恩講「龍谷会」のほか、4月8日の「花まつり」や12月19日の「お煤払い」など、西本願寺の本山とは別に営まれているものもあります。
ちなみに真宗本廟(東本願寺)の方では八坂神社や円山公園にほど近い東山にある「大谷祖廟」を親鸞聖人の廟所と定めており、「大谷祖廟」を「東大谷」というのに対し、「大谷本廟」は「西大谷」とも呼ばれています。