大谷本廟(西大谷)
大谷本廟(西大谷)とは?(基本データ)
- 名前
- 大谷本廟(西大谷)(おおたにほんびょう(にしおおたに))
- エリア
- 祇園・東山
- ジャンル
- 建立・設立
- 1272年(文永9年)、東山大谷の地に建立された親鸞の廟堂「大谷廟堂」が由来
1603年(慶長8年)、知恩院の拡張造営に際し宗祖親鸞が荼毘に付された「鳥辺野の南の辺、延仁寺」と伝わる「御荼毘所」に隣接する現在地に造営 - 創始者
- [大谷廟堂] 覚信尼(親鸞の末娘)
[大谷本廟] 西本願寺14世・寂如 - 宗派
- 浄土真宗本願寺派 本山飛地境内建物
- 山号
- 龍谷山(竜谷山)(りゅうこくざん)
- 本尊
- 阿弥陀如来
- 寺紋
- 西六条下り藤
- アクセス
- 駐車場
- 30台程度
※お彼岸・お盆時期は閉鎖(無料循環バスの利用を推奨) - 拝観料
- 無料
- お休み
- 無休
- 拝観時間
- 11~2月 6:00~17:00
3月 6:00~17:30
4月 5:30~17:30
5~8月 5:30~18:00
9月 5:30~17:30
10月 6:00~17:30 - 住所
- 〒605-0846
京都府京都市東山区五条橋東6丁目514 - 電話
- 075-531-4171
- FAX
- 075-531-2072
- 公式サイト
- 大谷本廟 西大谷ホームページ
大谷本廟(西大谷) 親鸞聖人を訪ねて
大谷本廟(西大谷)の地図
大谷本廟(西大谷)のみどころ (Point in Check)
京都市東山区五条橋東6丁目、五条通と東大路通の交差する東山五条の東にある浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん 1173-1263)の墳墓の地で、「日野誕生院」「角坊(すみのぼう)」とともに西本願寺の飛び地境内。
「御伝鈔(本願寺聖人伝絵)(ごでんしょう(ほんがんじしょうにんでんね))」によると、親鸞聖人は鎌倉時代の1263年(弘長2年)11月28日に弟・尋有(じんう)の住坊「善法坊(現在の角坊)」において90歳で亡くなり、東山今熊野の延仁寺(えんにんじ)、現在の御荼毘所で荼毘に付された後、鳥辺野の北の「大谷」の地に埋葬されて笠塔婆が建てられました。
その後その墳墓は1272年(文永9年)11月に親鸞聖人の末娘にあたる覚信尼(かくしんに 1224-83)によって吉水の北辺、現在の知恩院山門の北側に位置する崇泰院付近に移され、廟堂が建立されるとともに聖人の御影像が安置され(大谷影堂)、その後1321年(元応3年)に本願寺第3代・覚如(かくにょ 1270-1351)により本堂などの建物が造営されるなどし寺院化されたものが「本願寺」です。
本願寺はその後中世には他宗派や織田信長との抗争などにより越前吉崎、河内出口、京都山科、大阪石山と幾度かの破却・移転を繰り返した後、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の寄進によって大坂天満から堀川通に面した七条堀川に移転し、更に江戸初期の1602年(慶長7年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康の宗教政策により、東本願寺と西本願寺の東西に分かれて現在に至っています。
そして廟堂については第8代・蓮如の時代の1465年(寛正6年)に起きた「寛正の法難」により破却されるまで約200年間、諸国の門弟や同行によって護持され、その後は「大谷道場」として護持されつつも破却と復興を繰り返した後、本山が現在の西本願寺の堀川七条に落ち着いた後の1603年(慶長8年)、第12代・准如の時代に知恩院の境内拡張に際し徳川幕府の命によって親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山の現在地に移転され、この地を「大谷」と呼ぶようになったのが現在の大谷本廟のはじまりです。
更にその2年後の1605年(慶長10年)には仏殿が建立され、1661年(寛文元年)には祖墳を南谷の現在地に移転するとともに、九条・西光寺の願いによってその祖廟の外に墳塔を営むことが許可され、これが「大谷墓地」のはじまりとされていて、以降は宗祖・親鸞の遺徳を偲ぶ数多くの門信徒がこの地に墓地を求め、現在の境内には約1万3千基の墓と約3万2千基の納骨堂が立ち並んでいるといい、お盆やお彼岸の時期を中心に多くの人々が墓参りに訪れます。
また行事については報恩講「龍谷会」のほか、4月8日の「花まつり」や12月19日の「お煤払い」など、西本願寺の本山とは別に営まれているものもあります。
ちなみに真宗本廟(東本願寺)の方では八坂神社や円山公園にほど近い東山にある「大谷祖廟」を親鸞聖人の廟所と定めており、「大谷祖廟」を「東大谷」というのに対し、「大谷本廟」は「西大谷」とも呼ばれています。
大谷本廟(西大谷)の施設案内
境内
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門前
東山五条交差点の東側
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寺号標
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円通橋(えんつうきょう)(めがね橋)
長さ約40m、幅約6m、橋脚、敷石板、欄干など全て花崗岩の切り石を用いている
橋脚によって造られた二つのアーチが池水に映る姿はあたかも眼鏡のように見えることから通称「めがね橋」として親しまれている
1856年(安政3年)12月に竣工し当時は「奇巧をつくした石橋」として珍重され「花洛名勝図絵」にも紹介されている
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皓月池(こうげついけ)
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参道
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案内図
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親鸞聖人像
総門の手前、参道の左手
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石段
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総門(そうもん)
1710年(宝永7年)の本願寺第14代・寂如の時代に宗祖・親鸞聖人450回忌法要を修するにあたり同年3月に建立
その後1796年(寛政8年)の第18代・文如の時代に現在の四脚門に改築された
門に掛かる「大谷本廟」の額は1860年(萬延元年)、第20代・広如の筆によるもの
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守衛所
総門くぐって左
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手水舎
総門くぐって右
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本廟会館
総門くぐって右手
納骨・読経等の受付を行う他、建物内には売店・喫茶・食堂などがある
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仏殿(本堂)
現在の建物は1870(明治3年)の再建
内陣には寂如作の阿弥陀如来像を中心に歴代宗主、左余間に七高僧・聖徳太子、右余間に覚信尼の絵像を安置する
堂内の「龍谷山」の額は寂如筆によるもの
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読経所
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鐘楼
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参道
二天門と続く
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古代の蓮「大賀蓮」
参道の途中左手
日本の植物学者・大賀一郎(おおがいちろう 1883-1965)が蘇らせた古代蓮の花が咲く
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二天門
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広場
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大谷本廟内石窟
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覚信尼公碑
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お手洗い
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無量寿堂
1968年(昭和43年)に第一無量寿堂、1990年(平成2年)に第二無量寿堂と呼ばれる室内の納骨所を造営
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戦没者記念堂
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明著堂
親鸞の墓所である祖壇の前に位置する拝堂
1709(宝永6年)の第14代・寂如の時代に造営されたもので、正面に寂如筆による「明著堂」の額を掲げる
祖壇の周囲には歴代宗主や裏方の廟墓・祖壇納骨所などもある
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殉教碑
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守衛所
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北門
大谷墓地入口
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山口花店
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大谷墓地
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御荼毘所への石段
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親鸞聖人御荼毘所
親鸞の往生の後、その遺骸は洛陽東山の麓、鳥辺野の南の辺の延仁寺で火葬されたといい、その当時の火葬所跡と伝えられている
「親鸞聖人奉火葬之古蹟」の石標が建つ
なお東本願寺では延仁寺の旧地を京都市東山区今熊野にある真宗大谷派の寺院「延仁寺」の場所としており(現在の延仁寺は廃寺の後に再建されたもの)、同寺にも「親鸞聖人御荼毘所」「見真大師御荼毘所道」の石碑が建つ
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関連
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崇泰院(元大谷)
京都市東山区林下町、知恩院の三門のすぐ北側にある知恩院の塔頭寺院
大谷廟堂が建立された元の「大谷」の旧地で、知恩院拡張造営に先立って廟堂が現在の大谷本廟に移転された後に建立された
門前に「大谷本願寺故地の碑」「親鸞上人旧御廟所」が建つ
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周辺
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東山五条交差点
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五条坂
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東大路通
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五条通
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大谷本廟(西大谷)の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1/1
元旦会
- 3月春分の日と前後3日間
春季彼岸会
- 4/8
潅仏会・花まつり
- 6/5~6/8
納骨・永代経総追悼法要
- 8/6~8/10
朝の法座
- 8/14・8/15
盂蘭盆会
- 9月秋分の日と前後3日間
秋季彼岸会
- 10/15・10/16
龍谷会
大谷本廟の報恩講
宗祖・親鸞の命日にあたりその遺徳を偲ぶとともに、真実の教えに遭遇できた御恩に報謝する法要- 12/19
お煤払い
- 12/31
除夜会
月並行事
- 毎日
晨朝(あさのおつとめ)
仏殿・明著堂にて
- 毎月15・16日
宗祖月忌法要
明著堂にて
- 毎週木曜
木曜法話会
11:30~12:00
- 毎月第3日曜
ほんびょうさんの朝市
大谷本廟総門下にて生産者直送の食品・生活雑貨などを販売
9:00~16:00
第3日曜以外にも開催している場合あり(年始、龍谷会、彼岸など)