京都市東山区四条通大和大路東入ル祗園町南側、四条大橋を東へ進んだ八坂神社参道(四条通)沿いにある浄土宗寺院。
山号は寿福山で、本尊の丈六の地蔵菩薩坐像は一般に「目疾地蔵(めやみじぞう)」と称され、眼病に霊験があるとして広く信仰されています。
「仲源寺略縁起」によると、平安中期の1022年(治安2年)頃、仏師・定朝(じょうちょう ?-1057)が四条橋の東北に自作の地蔵菩薩を祀ったことに由来。地蔵菩薩は、土中から出土したものとも言われています。
その後地蔵堂は荒廃しますが、鎌倉時代の1228年(安貞2年)に鴨川が氾濫した際、防鴨河使(ぼうかもがわし)として鴨川の治水を担当していた勢多判官・中原為兼(せたのはんがんなかはらためかね)が、地蔵菩薩に雨が止むように祈願したところ洪水が治まったことから、また地蔵菩薩は霊験あらたかな「雨止地蔵(あめやみじぞう)」と呼ばれるようになり、また荒廃していた地蔵堂は中原為兼の名字に人と水を添えた「仲源寺」の寺名で再興され、後堀河天皇の勅願寺となったとされています。
この他にも地蔵菩薩が鴨川氾濫の際に溺れている人を救う姿を見たことから「雨止地蔵(あめやみじぞう)」と称したとも、あるいは八坂神社への参詣の途中に参拝者が地蔵堂で雨宿りをしていたことからいつしか呼ばれるようになったなど諸説あるといいます。
昔の鴨川は度々氾濫し「暴れ川」と称されるほど恐れられていたため、人々は「雨止み地蔵」を厚く信仰していましたが、その後、信仰深い老夫婦の眼病を自らの右目に移し、苦しみを救ったという逸話から、いつしか「目疾地蔵(めやみじぞう)」になり、江戸期には名地蔵の一つにも数えられたほか、現在も眼病治療に霊験があるとして広く信仰を集めています。
ちなみに目疾地蔵の由来についても地蔵菩薩の右目が曇って充血しているように見えることからそのように呼ばれるようになったとも、単に雨止地蔵が訛ったなど諸説あるといいます。
1585年(天正13年)に現在の寺地へ移転した後、1660年(万治3年)(1569年(永禄12年)とも)に漕誉が浄土宗寺院として中興。
なお中興時の本尊は湛慶作の阿弥陀如来坐像だったとも考えられているといいます。
地蔵菩薩以外にも重要文化財の平安時代の阿弥陀如来像、室町時代の阿弥陀座像などたくさんの仏像があることで知られていて、本堂の地蔵尊像の傍らには室町時代の作といわれる「山越(やまごえ)阿弥陀像」が祀られています。
また観音堂の本尊・木造の千手観音坐像は平安後期の春日仏師の作とされ重文に指定されているほか、「洛陽三十三所観音霊場」の第十六番札所にもなっています。
この他にも大黒堂にある大黒天は瀬田の唐橋と同じ木から彫られたといわれ、祇園の女将の信仰を集め、23日の縁日には欠かさず和歌山や神戸などからも参拝客があるといいます。