四条大宮より四条通をやや西に進んだ四条坊城の南西角、壬生寺の北側に鎮座する神社。
付近一帯にはかつては数万本の梛の木の森があったといい、現在でも地元では「梛の宮さん」と通称され親しまれています。
社伝によると、平安初期、清和天皇の時代の869年(貞観11年)に京都で疫病が流行した際、その悪疫を鎮める鎮疫祭を行うため、播磨国広峰の広峰神社より「牛頭天皇(素戔嗚尊)」を勧請しますが、牛頭天王の分霊を乗せた神輿が東山の八坂に祀られる前、いったん朱雀大路に近い梛の森のこの地で仮祭祀されたといい、これが神社のはじまりと伝わっています。
牛頭天王の神霊は後に八坂に遷祀され「祇園社(現在の八坂神社)」が創建されることとなりますが、その際、梛の住民は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏でながら八坂へと送ったといい、これが「祇園祭」の傘鉾の起源となっているといわれています。
また上記の由緒から八坂神社の古址にあたるとして「元祇園社」「元祇園」とも呼ばれています。
この点、明治までは小祠であったといいますが、1874年(明治7年)と1929年(昭和4年)の復興により現在の形が整えられたといい、また大正期の1918年(大正7年)には式内大社の隼神社(はやぶさじんじゃ)が境内に鎮座し、併せて祀られるようになり現在に至っています。
ちなみに隼神社(はやぶさじんじゃ)は創建の経緯は不詳ですが、朱雀院の院内に鎮守として祀られたと考えられている神社で、
927年(延長5年)に成立した「延喜式」神名帳で式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている由緒ある神社です。
境内向かって左に梛神社、右に隼神社が鎮座し、梛神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ることから厄除け、武勇の神として崇敬を集めています。
行事としては5月第3日曜の「神幸祭」が有名で、神事の後に神霊を鳳輦(ほうれん)、子供神輿に移し、北は三条通、南は松原通、東は壬生通、西は土居の内通に囲まれた氏子社中を巡行します。
鳳輦と神輿のほかにも鼓笛隊(少年勤王隊)や獅子舞、猿田彦、剣鉾、花傘などが参加し、前日の夜から屋台も多く出て賑わいます。
他にも2月の「節分祭」は有名な壬生寺の節分会とともに大変な賑わいを見せるほか、6月30日には「夏越の大祓」で茅の輪くぐりが行われています。