京都市上京区本法寺前町にある日蓮宗の本山。
境内西側にある正門は小川通に面しており、向かいには裏千家、そしてすぐそばに表千家も屋敷を構える趣のある場所に伽藍を構えています。
「洛中法華21ヶ寺」の一つで、現在も「日蓮宗京都十六本山」の一つに数えられている寺院です。
寺伝によると、室町時代の1436年(永享8年)に日親が本阿弥清信の帰依を得て創建。
当初は京都市下京区内の東洞院綾小路(ひがしのとういんあやこうじ)にあったといいます。
日親は1440年(永享12年)に世の乱れを憂い、時の将軍足利義教に「立正治国論」を献じて平和の招来を直言しましたが、これが将軍の怒りを買い投獄。この際に焼鍋を頭から被せられるなどの迫害を受けたことから「冠鐺(なべかむり)日親」とも称された人物です。
翌年赦免されたものの寺は焼却。
しかしその評判を耳にした後花園天皇(ごはなぞの)により1455(康正元年)に現在の大丸百貨店付近の四条高倉に官地を賜り本堂再建が実現。
ところがこの度は1463年(寛正3年)にも東福寺の訴えによって再度投獄され、寺も破却。
しかしやはり翌1464年(寛正4年)には赦免され、現在の中京区の三条柳馬場にあたる三条万里小路(さんじょうまでのこうじ)にて再建となりました。
ところが今度は1536年(天文5年)に発生した有名な「天文法華の乱」で、他の洛中の法華寺院とともに叡山の山徒に焼かれて堺に避難。
1542年(天文11年)に後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受けて京都に戻ると、天文年間に一条堀川、一条戻橋や晴明神社のある付近にて再建されますが、1587年(天正15年)、第10世・日通のとき豊臣秀吉の京都改造計画に伴う区画整理によって移転を命じられ、ようやく現在地に落ち着くこととなりました。
江戸時代に入ると後水尾天皇や紀伊徳川家の代々の保護を受けて繁栄しますが、とりわけ一族の菩提寺として厚く外護したのが琳派の祖としても知られる文化人で芸術家の本阿弥光悦を輩出したことで知られる本阿弥(ほんあみ)家で、光悦の父・光二が私財を投じて再建にあたったほか、本堂正面の扁額「本法寺」は光悦の揮毫によるもの。また境内には本阿弥家一門の墓もあるほか、光悦による書画や什器も所蔵しています。
もっともその後1788年(天明8年)の「天明の大火」の際に被害を受けたことから、経蔵・宝蔵を除く諸堂は大火の後、江戸後期に再建されたもの。
しかし本堂をはじめ、開山堂、多宝塔、仁王門?、庫裡、書院、大玄関、唐門、鐘楼、経蔵、宝蔵、石橋に加え棟札13枚すべてが京都府有形文化財に指定されています。
この他に有名なのが方丈にある枯山水庭園の「巴の庭(ともえ)」で、本阿弥光悦作と伝わり国の名勝にも指定されており、涅槃会館(宝物館)にて収蔵・展示されている数ある重要文化財の美術品などの宝物とともに有料で拝観することができます。
また画家の長谷川等伯とゆかりがあることでも知られていて、本堂の前には本阿弥光悦お手植の松とともに等伯の像が建っているほか、宝物館には等伯の描いた国内最大級ともいわれる縦10m、横6mの巨大な「涅槃図(重文)」が収蔵されていることでも有名です。
境内は他の西陣の寺院とともに桜の隠れた名所として有名なほか、秋には見事なイチョウの木が黄色く色づき、人々の目を楽しませてくれます。