京都府宮津市字大垣、有名な日本三景・天橋立の北側の府中エリアに鎮座する、丹後国一の宮で、「元伊勢」の一つとされる神社。
「伊勢神宮」は三重県伊勢市に鎮座する神社で、正式には単に「神宮」で、この他に「伊勢大神宮」「大神宮」と呼ばれるほか、「お伊勢さん」の愛称で広く親しまれています。
皇祖神(皇室の祖先の神)である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(内宮)(こうたいじんぐう(ないくう))、および農業や食事などを司る豊受大神(とようけおおかみ)をまつる豊受大神宮(外宮)(とようけたいじんぐう(げくう))の両社の総称で、内宮・外宮の両社のほかに別宮と摂社・末社、所管社の計125社で構成されています。
三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を御神体とする皇大神宮(内宮)の創建の経緯についてはは「古事記」「日本書紀」に記述が見られます。
「天孫降臨(てんそんこうりん)」とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降ったことをいい、邇邇藝命は天照大神から授かった三種の神器を携えて高天原から地上へと向かいました。
その天孫降臨の際、天照大神は三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)に自身の神霊を込めたとされ、この鏡は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の日向三代を経て、初代・神武天皇(じんむ)に伝えられ、以後、第10代・崇神天皇(すじん)の代まで代々の天皇の側に置かれ、皇居の中に祀られていたといいます。
しかし、崇神天皇5年に疫病が流行し多くの人民が犠牲となると、疫病を鎮めるべく崇神天皇は八咫鏡を傍に置くことを畏れ多いこととして別殿を設けて祀ることとし、初めは大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)(現在の奈良県)に祀りますが、その後さらに良い鎮座地を求めて最初の斎宮と伝えられる皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を御杖代(みつえしろ)に伊賀、近江、美濃、尾張など各地を移動して回ります。
そして遂に垂仁天皇26年、五十鈴川(いすずがわ)上流の現在地に鎮座したと伝承されています。
ちなみに第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)は崇神天皇の第3皇子で、伊勢神宮内宮の鎮座に関わったほかほか、当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)とに相撲をとらしむと「垂仁紀」にあるように相撲の起源となり、また殉死の風習をやめさせて埴輪(はにわ)に代えさせたなどの伝承が伝えられている天皇です。
一方、豊受大神宮(外宮)の鎮座に関わる由緒については「古事記」「日本書紀」には記述がなく、それを記す最古の書である平安初期の804年(延暦23年)撰の「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」によると、雄略天皇22年7月、天照大神の神託により丹波国の比治真奈井原(ひじまないはら)(後に丹後国として分割、現在の京都府北部)より豊受大神を現在地である伊勢山田原(やまだがはら)に遷座したことが起源と伝えられています。
その後は皇祖神(皇室の祖先)を祀る宗廟として皇室から最高の尊崇を受け、明治以後は国家神道の中心として国により維持されましたが、1946年(昭和21年)に宗教法人となりました。
正殿は「神明造り(しんめいづくり)」といわれる神社建築様式の代表的なもので、天武天皇の時代に定められた20年毎に作り替える「式年遷宮」の制が今も行われていることでも有名で、直近では2013年10月に第62回遷宮の儀式が行なわれています。
「私幣禁断(しへいきんだん)」といって古くは私幣(天皇以外が幣帛(へいはく)=お供えすること)は禁止されていましたが、鎌倉時代以後は一般人も参宮するようになり、また伊勢参宮を目的に組織された「伊勢講」も生まれ、更には江戸時代には庶民による「お伊勢参り」が大流行するなどし、現在も「日本人の心のふるさと」として広く日本国民から親しまれる存在となっています。
一方、三重県の伊勢に落ち着くまでの約90年間の移動中、一時的に遷座された地は20か所以上もあるといわれ、「元伊勢」として各地で語り継がれたといいますが、当地もそれら元伊勢伝承地の一つとされている場所です。
神代の遥か昔から奥宮の地・眞名井原には匏宮(よさのみや)として豊受大神が祀られていたといい、伊勢神宮に遷座される54年も前の紀元前59年(崇神天皇39年)、第10代・崇神天皇の代にその縁故によって天照大神の神鏡・八咫鏡を奉じた豊鋤入姫命が鎮座地を求めて倭国笠縫邑から丹波国へと遷幸し、「吉佐宮(よさのみや)」を築いて4年間奉斎したといいます。
その後、天照大神が第11第・垂仁天皇(すいにんてんのう B.C.69-70)の代に、豊受大神が第21代・雄略天皇(ゆうりゃくてんのう 418-479)の代にそれぞれ伊勢に遷座された後は、天孫彦火明命を主祭神として祀り、社名も吉佐宮から「籠宮(このみや)」と改め、更に奈良時代の719年(養老3年)には本宮を奥宮・眞名井神社(吉佐宮)の地から、現在の籠神社の地へと遷し、伊勢神宮内宮の元の宮「元伊勢」としても変わらず崇敬を集めているといいます。
ちなみに旧社名の匏宮の「匏(よさ)」と吉佐宮の「吉佐(よさ)」という名は、現在も郡名「与謝郡」や「与謝の海」などにその名残りとして継承されています。
近畿・東海地方に27社ほど点在する「元伊勢」のうち、最古の伝承があることや、伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神がかつては当社の御祭神だったことなどから、もっとも崇敬を集めたといい、奈良時代には丹後国の一宮となり、平安時代の「延喜式」には名神大社として朝野の崇敬を集めるなど、山陰道唯一の大社として最高の社格と由緒を誇ります。
そしてそれを示すかのように本殿の造りは伊勢神宮と同じ「唯一神明造」であり、また本殿の正面には伊勢神宮と籠神社にしか祀ることが許されていないという「五色の座玉(すえたま)」が高欄に据えられています。
また「丹後国風土記逸文」によれば、日本三景のひとつとして名高い「天橋立」は、元々は籠神社の参道として発祥したもので、神代に天上にいた男神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が地上の籠神社の奥宮・眞名井神社にいた女神・伊邪那美命(いざなみのみこと)の元に通うために使っていた梯子が天橋立であったという天の浮橋神話が伝承されていて、このことから縁結び・良縁成就の聖地として伝えられています。
一方、旧鎮座地である眞名井の地・吉佐宮は現在は奥宮「眞名井神社」となっており、主祭神としてこちらから伊勢に遷されたと伝えられている伊勢外宮と同体の豊受大神を祀っていて、古代より丹波地方において稲作農耕の祖神・五穀豊穣の神様として知られ、現在も産業や衣食住の神様として厚い崇敬を集めています。
そして眞名井神社の境内は緑豊かでいかにも古社らしい静寂とした雰囲気に包まれ、天橋立を造ったと伝わる伊邪那岐命・伊邪那美命の両神を祀る磐座があるほか、御神水「天の眞名井の水」が湧き出ていて、近年は日本でも屈指のパワースポットとして人気を集めているといいます。
文化財としては神門前の狛犬は、鎌倉期の作で、国産石造としては一時期最古と考えられていたほど歴史が古く、その威風堂々たる姿は靖国神社をはじめ全国の神社に複製が置かれるなど、狛犬文化に多大な影響を与えたとされ、狛犬としては珍しく国の重要文化財にも指定されています。
また名作であるが故に魂が籠り、夜な夜な天橋立に遊びに出ては魔物と間違えられ、人々を驚かせたため、剣豪・岩見重太郎に前脚を切断され、以降は悪さをしなくなり、社頭にて魔除けの狛犬として霊験あらたかとなったという伝説が残されています。
その他にも元伊勢の創祀以来の宮司家である「海部氏系図」は、現存する日本最古の系図として国宝に指定されています。
行事としては第4代・懿徳天皇(いとくてんのう B.C.553-B.C.477)の時代の紀元前507年(懿徳天皇4年)に始まったと伝えられ、2500年以上の歴史が有するといわれる例祭「葵祭」が有名。
祭りの要となるのは祭神の神霊を鳳輦に遷して行われる「御神幸(お渡り)」で、神は旅をすることによって新たに生まれ変わり、恵みを授ける力を新たにするといい、祭全体が祭神の再生を祝う「御生れ神事(みあれしんじ)」となっています。
そしてその神の御生れを祝福すると共に神賑わいを盛り上げるのが御神幸の道中や祭典の前後に奉納される「太刀振り」や「笹ばやし」「神楽」「大獅子」などの奉納神事で、中でも「太刀振り」は平安時代から始まったと伝わる由緒あるもので、古式豊かな丹後特有の伝統芸能として京都府無形文化財に指定されています。
この点、同神社ともゆかりの深い京都の賀茂社の「葵祭」にて祭員が「葵の葉」を付けるのに対し、当社では冠に豊受大神ゆかりの「藤の花」を挿すのが古例となっています。