京都府京都市伏見区鷹匠町、京阪・近鉄の丹波橋駅から西へ徒歩10分ぐらいの住宅地の一角にある「薩摩寺(さつまでら)」の通称で知られる真言宗単立の寺院。
創建は平安初期に弘法大師空海(くうかい 774-835)とも、第51代・平城天皇(へいぜいてんのう 774-824)の第3皇子で空海の弟子となった真如法親王(しんにょほっしんのう 799-865)とも伝えられ、元々は「長福寺」と称し、豊臣秀吉をはじめ武家の信仰が深かったといいます。
そして江戸初期の1615年(元和元年)、寺の近くに薩摩藩邸があり、また藩主の島津家の守り本尊が大黒天であったため、薩摩藩主・島津義弘(しまづよしひろ 1535-1619)が、伏見奉行・山口直友(駿河守)(やまぐちなおとも 1544-1622)に懇願し寺を藩の祈祷所とし、薩摩の守り本尊「出世大黒天」にちなんで「大黒寺」と改められました。
もっとも当初より一般には「薩摩寺」の通り名で呼ばれていたとい、以降は薩摩藩ゆかりの寺となり、屋根瓦にも藩主である島津家の家紋「丸に十字」があしらわれています。
本尊・出世大黒天立像は空海が当寺を創立したとき安置したものと伝えられていて、約24cmの小さな像で金張の厨子に安置され、両脇には不動明王と毘沙門天を従え、甲子の年に開帳されたといいますが、現在は9月の「大黒天大祭」の時に開帳され、商売繁盛や出世開運などのご利益を求めて多くの参拝者が訪れます。
幕末には志士たちの密儀が度々行われたといい、西郷隆盛(さいごうたかもり 1828-77)も一時期住んでいたといわれていて、大久保利通(おおくぼとしみち 1830-78)が訪れ長州藩との関係について話し合ったと伝わる部屋がそのまま残されています。
また境内の墓地には薩摩藩の内部で公武合体を目指す温和派と勤王倒幕を掲げる急進派が対立したことを受け、1862年(文久2年)4月23日に急進派の志士が襲われた「寺田屋事件」で命を落とした有馬新七(ありましんしち 1825-62)ら9人の志士たちが葬られていることでも知られ、西郷隆盛が建てたという「伏見寺田屋殉難九烈士之墓」の墓碑をはじめ、志士たちの遺品や書歌、肖像などが現在も寺内に保管されています。
その他にも江戸中期の1753年(宝暦3年)に幕府から薩摩藩に命ぜられた木曽三川の分流工事で惣奉行を担当し、その任を果たしつつも多大な費用と多くの犠牲者を出した責任をとって自刃した薩摩藩家老・平田靭負(ひらたゆきえ 1704-55)の墓や、伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴し江戸での取り調べ中に病死した伏見義民の文珠九助(もんじゅうきゅうすけ 1725-88)などの遺髪塔があることでも知られています。
2001年(平成13年)、境内にて井戸を掘った際に湧き出た水は大黒天にちなんで「金運清水」と命名され、伏見の清酒を仕込む水と同じ水系といわれ、霊水を求めて多くの人々が訪れるといいます。
藤森神社、御香宮神社、弁財天長建寺、乃木神社とともに「伏見五福めぐり」の一社に数えられるほか、また境内には寺院が設置・運営する教育施設「板橋保育園」が併設されています。