京都市伏見区鷹匠町、京阪丹波橋駅にほど近い、伏見五福めぐりの大黒寺の向かいに位置する神社で、伏見で最も古い神社の一つ。
祭神・天太玉命(あめのふとだまのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすび)の子で、ここでは白菊大明神(白菊翁)。
天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に陪従して一緒に降りてきた神様で、祭祀や卜占を司る神でもあり、岩戸隠れの際にそっと外を覗かれた天照大神さまの前に鏡を差し出したことでも知られています。
この他に伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)の子で伊勢神宮の祭神として有名な女神・天照大神(あまてらすおおみかみ)と、須佐之男命(すさのおのみこと)の子供でお稲荷さんの主祭神として知られる女神・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)が併せて祀られています。
奈良時代の750年(天平勝宝2年)の創建と伝わり、縁起「山城名跡巡行志」によれば、伏見の久米の里に白菊の翁という老人がいて、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。
ある年、長さ2丈におよぶ大きな流れ星が降るという天変地異が起こり、不吉の印ではと孝謙天皇が深く憂慮された通りに干天が続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐと、たちまちそこから清水がこんこんと湧き出たといいます。
これが旧社地にあった「白菊井」の伝説として知られるエピソードで、この翁こそ天太玉命であり、その奇瑞を喜んだ里人が、天皇に奏上。
すると天皇は事のほか喜ばれ「金札白菊大明神」の宸翰を里人に与えたことから、里人たちは力を合わせて社殿を造営し翁(天太玉命)を祀ったといいます。
そして造営の最中に突然天から金の札が降ってきて、札には「永く伏見に住んで国土を守らん」と金文字で書かれていたとも伝えられ、この金札宮の社殿造営に伴う奇譚は、観阿弥の作とされる能の謡曲「金札」で現代にまで伝わっています。
また一説には清和天皇の代の貞観年間(859-76)に橘良基が阿波国より天太玉命を勧請したものとも伝えられています。
伏見に於ける最も古い神社の一つで、伏見九郷の一つ旧久米村の産土神として崇敬され、旧石井村の御香宮と匹敵する規模と信仰を有していたといいます。
また桓武天皇以降歴代天皇のご崇敬も厚く、行幸を賜ったり修繕の勅を下されるなどし、鎌倉後期の1299年(正安元年)には後伏見天皇により荘園が寄進されています。
1322年(元亨2年)には祠官の金松弥三郎宗広が本願寺の存覚に帰依して境内に久米寺を再興し、1355年(文和4年には西方寺と改められ、更に1467年から勃発した「応仁の乱」による焼失ののち、伏見宮貞常親王によって再興され、後柏原天皇の代に修繕の勅があって往時の社勢を取り戻しました。
それから豊臣秀吉の伏見城築城に際しその鎮守として城内に移されることとなり、現在地より西方250mの御駕篭町へ移された後、更に1604年(慶長9年)に喜運寺が創建された際にその鎮守杜として現在の鷹匠町に移転を経て、明治初期の「神仏分離令」で独立し現在に至っています。
現在の社殿は、江戸後期の1846年(弘化3年)に伏見奉行・内藤豊後守の許可により造営を始め、1848年(嘉永元年)に完成したもので、この他にも境内中央に京都市の天然記念物にも指定されている樹齢1200年と言われる御神木の「クロガネモチの木」があることでも有名です。
行事としては2010年(平成22年)に55年ぶりに復活した「寶惠駕籠」の巡行が知られていて、元々はかつて中書島にあった花街の芸妓さんを寶惠駕籠に乗せて界隈を巡行していたといいますが、現在は一般の応募による参加者がその代役を務め、賑やかに開催されています。