京都市左京区岩倉幡枝町、京都市北部の岩倉盆地の西側、叡山鞍馬線木野駅から徒歩約10分の幡枝地区にある瓦窯跡。
「瓦窯跡(かわらがまあと)」とは瓦を焼いた窯の跡のことで、都の造営のなどの際には大きな材木の確保も問題でしたが、宮殿や寺院の屋根に瓦が欠かせないことから、瓦の生産体制を整えることも重要な問題であり、このため都の建設予定地の近くには多くの瓦窯が造られました。
そして京都において市の北部に位置する岩倉盆地は、良質の粘土と燃料の薪に恵まれ、平安京の造営以前から瓦の製造が盛んな場所として知られていました。
この点「岩倉」は京都市の中心部より北東、北方に北山から比叡山、南方に宝ヶ池のある松ヶ崎丘陵に囲まれた小さな盆地である岩倉盆地を中心とする地域で、現在は左京区の一地域となっていますが、山城国愛宕郡の岩倉村・木野村・中村・長谷村・幡枝村・花園村の各村が1868年(明治元年)に旧京都府に編入された後、1872年(明治5年)に木野村の岩倉村への編入を経て5か村となり、1889年(明治22年)の町村制施行によって5か村が統合されて愛宕郡「岩倉村」が発足し、旧村名を継承した5つの大字が設置され、戦後に入り京都市に編入された地域です。
中でもとりわけ盆地西部の幡枝地区の一帯は平安京造営以前から瓦製造の中心地であったようで、飛鳥時代から平安時代までの大規模な古窯跡群が残っており、その中でも「栗栖野瓦窯」は大規模な官営の瓦窯として有名で、平安時代を通じて操業されていたといいます。
そしてこの栗栖野の地で生産された瓦は平安京の宮殿である平安宮大内裏や東寺や西寺などの寺院の瓦として使用されていた模様で、平安宮の大内裏跡をはじめ、平安京内外の寺院跡から多数の瓦が出土しています。
「栗栖野瓦窯跡」は1930年(昭和5年)に古瓦研究の第一人者であった木村捷三郎(きむらしょうざぶろう 1905-94)によって発見、翌1931年(昭和6年)には周辺一帯の発掘調査が行われた結果、縦2m、横1.5mの瓦床には坑道や火床が残り、瓦窯跡内からは窯詰めされたままの瓦が約600枚が出土しました。
そしてこれらの出土した瓦には「栗」や「木工」の銘が印されたものが見られたことから、この瓦窯跡が平安時代の文献である「延喜式」の木工寮(もくのりょう)にみられる「小野栗栖野両瓦屋」の一方である官窯「栗栖野瓦屋」と一致するものであるとして注目されるようになり、これを契機に1934年(昭和9年)、丘陵の一部が平安時代の窯業を知る上で貴重な遺跡であるとして「国の史跡」に指定されています。
その後も何度かの発掘調査が行われ、確認された窯は24基にのぼり、当初は平安時代の瓦窯であるとされていましたが、窯の構造が平窯が多いものの、中にはトンネル状の窖窯(あながま)もあり、一部では瓦の他にも須恵器や緑釉・二彩陶器なども焼かれていたことが判明し、時代は飛鳥時代にまで遡ることが分かっているといいます。
現在は埋め戻されており、山の斜面と丘陵のほかは窯跡を示す「史跡 栗栖野瓦窯跡」の石標と京都市による史跡であることを示す説明版が立つのみですが、同じ岩倉の幡枝地区には、借景庭園で知られる有名な「圓通寺(円通寺)」や桜やツツジの名所として知られる「妙満寺」などもあり、合わせて巡るのもおすすめです。
そしてその他にも岩倉の周辺には市内最古の窯である「元稲荷窯跡」や、岩倉自動車学校の近くで平安末期~鎌倉初期に操業していたという「南ノ庄田瓦窯跡」、またやや北にある「京都精華大学」の北にかけての中の谷に点在する平安時代の須恵器窯・灰釉陶器窯跡である「中の谷窯跡(中の谷4号窯)」、天然記念物となっている深泥池の東側にあったという「深泥池瓦窯跡」などの窯跡が近くにあり、多くの史跡が案内板や石碑などはありませんが、合わせて訪問することでより一層の深い知識と知見を得ることができると思われます。
また前述の「延喜式」の木工寮(もくのりょう)にみられる「小野栗栖野両瓦屋」のもう一方の官営の窯跡である「小野瓦窯跡(おのがようあと)」も岩倉の地に隣接した上高野小野町、叡山三宅八幡駅と八幡前駅の中間付近にあり、現在は「おかいらの森」と呼ばれるとともに近くにある崇道神社の御旅所にもなっており、入口付近に「おかいらの森」「崇道神社 御旅所」の石標があるほか、瓦窯跡であることを説明する「京都市指定史跡 小野瓦窯跡」の駒札が立てられています。
この他にも京都には数多くの瓦窯跡が残っており、その用途は平安京造営のもの以外にも京都府南部では奈良の平城京の造営のためのものであるとか、また当時存在した寺院のためのものであったりと造られた目的は様々なようですが、これらの中でも世界遺産・上賀茂神社の西方に位置する北区の西賀茂地区には数多くの瓦窯跡があり、岩倉のものとともに平安京の成り立ちを示す上でも重要な資料の一つとなっています。