京都市伏見区桃山町板倉周防、京阪伏見桃山駅や近鉄桃山御陵前駅、JR桃山駅の東側、122代・明治天皇(めいじてんのう 1852-1912)の伏見桃山陵の南麓に鎮座する、明治期の軍人で「日露戦争」を勝利に導き、海軍の東郷平八郎「海軍の東郷、陸軍の乃木」と並び称される国民的英雄として尊敬を集めた乃木希典大将を祭神として祀る神社。
乃木希典(のぎまれすけ 1849-1912)は1849年(嘉永2年)11月11日に江戸麻生の長州毛利藩上屋敷にて長州藩の支藩である長門府中藩(山口県)の藩士・乃木希次(まれつぐ)の三男として生まれ、10歳の時に父が帰国を命ぜられたのに合わせて長府(山口県)に移り住み、松下村塾(しょうかそんじゅく)の創立者である吉田松陰の叔父・玉木文之進の門に入って学んだ後、1866年(慶応2年)の幕府による第二次長州征伐の際には長州藩の報国隊の一員として小倉口に戦いに出陣して18歳にして初陣を飾り、その後は周囲の助言もあって武人としての道を歩むこととなり、1872年(明治4年)には陸軍少佐に任官し1876年(明治9年)の「萩の乱」や1877年(明治10年)の「西南戦争」にも従軍しています。
その後、1887年(明治20年)から翌年にかけてドイツに留学し軍制・戦術を研究し、1894から1895年(明治27~28年)にかけての「日清戦争」では歩兵第1旅団長(少尉)として遼東半島先端部にある旅順要塞を攻略し陥落させ、更に1895年(明治28年)には第2師団長(中将)として台湾征討に参加し、戦後は第3代台湾総督に就任しています。
1898年(明治31年)には香川県善通寺に新設された第11師団の初代師団長(中将)に就任するも、その後一時休職。
そして1904~1905年(明治37~38年)、日露戦争の第3軍司令官(大将)として出征することとなり、当時難攻不落といわれた旅順要塞を攻略することとなります。
旅順要塞のある遼東半島は日清戦争後の下関条約で日本に割譲されたものの、三国干渉の結果、清に返還され、代わってロシア帝国が清から租借することとなり、その後旅順はロシア帝国海軍の太平洋艦隊の主力艦隊・旅順艦隊の根拠地として使用され、永久要塞が建設されていました。
日本が日露戦争に勝利するためにはこの旅順艦隊を無力化することで、日本本土と朝鮮半島や満州との間の補給路の安全を確保することが不可欠であったといい、3回にわたる総攻撃の末、2人の息子が戦死するなど多大な犠牲を払いながらも旅順要塞の要衝・二◯三高地の争奪戦に勝利し、日露戦争の勝利を決定づけるとともに、旅順要塞を陥落させた後の要塞司令官ステッセリとの「水師営の会見」での紳士的な振る舞いは、その武功とともに世界的に報道されて賞賛されたといいます。
日露戦争の後は第3軍司令官を退任するとともに軍事参議官に任命され、その後も第明治天皇の信任厚かったといい、武人としてはもちろん、文人としても優れた教育者であり人格者でもあった乃木大将の「尊皇愛国、尽忠無私、至誠一貫」の精神を華族の子弟教育に取り入れたいとの思いや、戦争で2人の子供を失って寂しい乃木大将に、その代わりに沢山の子供を授けようとの思いから、1908年(明治41年)、明治天皇の皇孫・迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学するに先立って天皇より「華族の教育の事、総て卿に一任す」との勅命を賜り学習院院長への就任を要請されます。
学習院長に就任した乃木大将は、子供たちと同じ学寮で寝食を共にするとともに、剣道・柔道・水泳などにも力を入れてその先頭に立って指導を行い、生徒たちからは「乃木おじいさん」と親しみをもって呼ばれて尊敬を集めていたといい、また「心の教育」にも力を入れ、生徒たちに与えられた訓示は「學習院初等科 乃木院長訓示要領」として現在まで伝えられています。
そして1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御すると、乃木大将は明治天皇大葬の日の同年(大正元年)9月13日、天皇の棺を乗せた車が宮城を出発する号砲が打たれた20時過ぎに「うつし世を 神去りましし 大君の 御あと慕いて 我は逝くなり」の辞世の句を残し、東京赤坂の自宅にて、妻・静子とともに明治天皇に殉じて自刃を遂げます。
その訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しむとともに欧米の新聞においても多数報道されたといい、1912年(大正元年)9月18日に行われた乃木夫妻の葬儀には十数万の民衆が自発的に参列したといわれていて、その様子は「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また外国人も多数参列したといいます。
またその死去を受けて各地に追悼の運動が起こり、京都市伏見区の当社をはじめ、自宅のあった東京赤坂、別荘のあった栃木県那須塩原市、幼少期を過ごした山口県下関市、その他にも香川県善通寺市や北海道函館市といった全国各地のゆかりの地に乃木神社が建立されたほか、東京都港区の赤坂の乃木邸の前を通っていた通りは幽霊坂から「乃木坂」へと改められ、現在は地下鉄東京メトロ千代田線の乃木阪駅の駅名にもなるなど、地域一帯をの地名としても定着し、その名を後世に残しています。
近年では2011年に誕生した人気女性アイドルグループ「乃木坂46」の名前の由来にもなっていて、東京の乃木神社ではCDのヒット祈願や成人したメンバーの成人式が行われているほか、全国の乃木神社がファンの間で聖地巡礼の対象になっているといいます。
そして京都にある乃木神社は、1916年(大正5年)9月13日、明治から大正時代に活躍した実業家・村野山人(むらのさんじん 1848-1921)とその志に応え賛同する人々の熱意と尽力により創建。
建立の中心となった村野山人は薩摩藩(現在の鹿児島県)の出身で、兵庫県警部や神戸区長を勤めた後、鉄道事業を開始し、山陽鉄道や豊州鉄道、神戸電気鉄道などを経営し、神戸商法会議所会頭や衆議院議員なども務めた関西の政財界を代表する人物で、明治天皇の大葬の際には京阪電車の会社代表として参列していたといいます。
ところがその翌日に乃木夫妻の殉死を耳にすると、強い衝撃を受けるとともに感銘を受け、将軍の人となりや日本人の心を後世に伝えようと、乃木夫妻の殉死の1年後に全ての役職を辞し、私財を投じて乃木神社の創建に取り組みます。
創建の地に選ばれたのは明治天皇の眠る伏見桃山陵の南麓で、元々は皇室の御料地でしたが、村野山人をはじめ神社の建立を願う多くの政財界人や軍人などの尽力および時の政府の理解によって特別に建設が許されたといい、全国に建設された乃木神社中最も早く建立が計画されたものの、用地確保と建設に4年の歳月を要したこともあり、1923年(大正12年)に創建された東京赤坂の乃木神社よりも早く栃木県那須塩原市の乃木神社に次いで全国で2番目に創建されることとなります。
京都御所や明治天皇の伏見桃山御陵の南側にあることから、そちらの方に背を向けないように春日造の本殿をはじめとする境内は南向きや東向きが一般的なところ、北向きに整備されていて、鳥居をくぐると樹齢3千年の台湾檜の1幹で造られた神門が参拝者を出迎え、その先には乃木大将の愛馬でロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬・壽号とその子・璞号の銅像が本殿前を守るようにして配されています。
その他にも幼少期を過ごした長府の乃木旧邸が復元されているほか、日露戦争の旅順攻撃の際に第3司令部の乃木大将が約1年間指揮を執るために使用していた中国の民家が移築されて記念館に、また将軍の書画、武具など遺品数100点を保存する蔵造りの宝物館も創建と同時に建造され、見どころの一つとなっています。
そして祭神にちなんだ勝運・立身出世・受験・学力向上・芸能・諸芸上達などのご利益で知られ、境内には乃木大将が生前によく栗を食べ「勝ちまくり」と願掛けをしていたことにちなんだ「全てに勝ちま栗の祠」や勝ちま栗の勝運祈願の絵馬などの授与品も多く用意されていて、その他にも名水「勝水」は勝運の縁起水として知られています。
また本殿右手の摂社「山城えびす神社」は元々は乃木大将の夫人・静子を祀まつる「静魂神社」でしたが、後に本殿相殿に合祀されたことを受けて現在は七福神の中で唯一日本の神様である蛭子皇子(えびす様)を祀る社となっており、社殿両脇には狛犬に代わる大鯛のオブジェが配されていて、商売繁盛のご利益で知られています。