京都市伏見区観音寺町、伏見の中心部でメインストリートである大手筋に形成されている伏見大手筋商店街より大手筋通を東へ進んだ先、伏見一帯の鎮守である御香宮神社との間にある近鉄京都線の駅。
1928年(昭和3年)11月3日、奈良電気鉄道の桃山御陵前駅と奈良の西大寺駅(現在の大和西大寺駅)の区間の開通に合わせて終着駅として開業したのがはじまりで、その後すぐ11月15日に当駅から京都駅まで延伸され中間駅となり、更に1953年(昭和28年)に発生した台風13号による被害を受け経営難に陥った奈良電気鉄道を近畿日本鉄道(近鉄)が買収したのを受け、1963年(昭和38年)10月1日に会社合併により近鉄京都線の駅となり現在に至っています。
開業当初は駅のすぐ西側にある京阪の伏見桃山駅にて京阪との乗り換えが可能な連絡駅でしたが、1945年(昭和20年)に駅の北側にある京阪の丹波橋駅とを結ぶ線路が新設されるとともに京阪の丹波橋駅での相互乗り入れが開始された後、1968年(昭和43年)に電圧の昇圧や車両の大型化の影響によって近鉄丹波橋駅が京阪より分離開業された現在は、近鉄との連絡駅としての地位は近鉄丹波橋駅に譲る形となっています。
また当初は地上駅の予定だったといいますが、京都府による桃山御陵参道との平面交差の要請によって地下線とする計画に変更された後、更に酒どころとして知られる伏見の地下水脈に影響を与えるとの伏見酒造組合による反対・陳情を受けて高架化されることとなり、相対式2面2線のホームを持つ高架駅となっています。
そして大手筋通に面する1階に改札・コンコース、2階にホームがあり、駅の北側には1945年から1968年まで実施された京阪本線との相互乗り入れ時に使用された線路の跡がわずかに残っているといいます。
付近一帯は元々は1594年(文禄3年)、天下人となった豊臣秀吉が晩年の居城として桃山丘陵に「伏見城」を築城した場所で、駅前を通る大手筋通は城の表門として築かれた大手門へ出入りする道として城の西側に造成されたものです。
そして伏見城は秀吉の死後に徳川家康の家臣・鳥居元忠が守備するも1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城した後、1602年(慶長7年)頃に戦いに勝利した家康によりいったんは再建され第3代将軍・徳川家光の時代まで使用されましたが、一国一城令により1619年(元和5年)に京における城郭が二条城に集約されることが決まると1623年(元和9年)に廃城となり、取り壊された伏見城の跡地一帯には桃の木が植えられ「桃山」という地名が生まれたといわれています。
その後、1912年(明治45年)に明治天皇が崩御すると京都で生まれ京都御所で育った明治天皇の遺詔によって陵墓が伏見桃山の地に定められ、伏見城の本丸があった場所の天守閣の南側に設けられ、当駅は大手筋通を経て東にある明治天皇の桃山御陵への参道へと続くことから「桃山御陵前駅」と名づけられ、JR桃山駅とともにその最寄駅としてとりわけ戦前には多くの参拝客が利用したといいます。
また桃山丘陵の北側に1964年(昭和39年)にオープンし近鉄グループが運営していた遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の最寄駅としても親しまれていましたが、2003年(平成15年)に閉園の後はそのシンボルとして建造された伏見城の模擬天守は地元の要望もあって残されたものの、現在は京都市によって整備された伏見桃山城運動公園へと姿形を変えています。
現在も大手筋通は東西長さ約400mのアーケード街の通りに114店舗が軒を連ねる「伏見大手筋商店街」のある伏見のメインストリートとなっていて、京阪の伏見桃山駅とともに同商店街や御香宮神社、寺田屋や伏見の酒蔵などの伏見の名だたる史跡や観光スポットの最寄駅として多くの人々に利用されています。
また駅を出て大手筋通を挟んだ向かい側のガード下には「駅前0番地」と名づけられた小さな飲み屋などが軒を連ねる飲食店街が形成されていて、情緒溢れる駅前の雰囲気を醸し出しています。