法性寺
法性寺とは?(基本データ)
- 名前
- 法性寺(ほうしょうじ・ほっしょうじ)
- エリア
- 東福寺・稲荷
- ジャンル
- 正式名
- 大悲山一音院法性寺(だいひざんいっとんいんほうしょうじ)
- 建立・設立
- 925年(延長3年)
- 創始者
- [開基] 左大臣・藤原忠平
[開山] 天台座主・法性房尊意 - 宗派
- 浄土宗西山禅林寺派
- 山号
- 大悲山(だいひざん)
- 本尊
- 木造 千手観音立像(二十七面千手観音菩薩)(国宝)
- 寺紋
- 札所等
- 洛陽三十三所観音霊場 第21番
- アクセス
- 駐車場
- 6台(無料)
- 拝観料
- 境内自由・無料
- お休み
- 内部拝観には事前申請が必要
- 拝観時間
- 9:00~16:00
- 住所
- 〒605-0981
京都府京都市東山区本町16-307 - 電話
- 075-541-8767
- FAX
- -
- 公式サイト
- 洛陽三十三所観音巡礼 第二十一番札所 法性寺
法性寺の地図
法性寺のみどころ (Point in Check)
京都市東山区本町、紅葉の名所として有名な東福寺の最寄駅であるJR・京阪東福寺駅から少し南へ下がった伏見街道沿いにある浄土宗西山禅林寺派の寺院。
正式名は「大悲山一音院法性寺(だいひざんいっとんいん)」といい、山号は大悲山、本尊は国宝の木造千手観音立像。
平安中期の925年(延長3年)、左大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら 880-949)の発願により創建。
寺名は開山である天台座主13世・法性房尊意(ほっしょうぼうそんい 866-940)の名に由来するものだといいます。
この点、藤原忠平は、菅原道真と対立したことで知られる兄・藤原時平の没後に氏の長者となり、摂政、のちに太政大臣・関白となり、摂関政治の基礎を築いた。また927年には時平の時代に編纂が開始された「延喜格式」を完成させています。
また尊意は、平将門の乱の鎮圧や醍醐天皇の詔を受けて祈雨の法を修し雨を降らせるなどの霊験があったほか、「北野天神縁起絵巻」では荒れ狂う道真の怨霊を問答の末に鎮めたという伝承が伝えられる人物です。
公家恒例被行脚読経の寺として建立されて以後、承平年間(931‐938)には御願寺となり、藤原摂関家の氏寺として藤原一門の加護を受けて一族の子院が寺域内に営まれるなど、平安時代を通じて大いに栄え、「京洛二十一ヶ寺」の一刹にも数えられていたといいます。
またその寺域は鴨川の東、北は東福寺のある九条大路から、南は伏見区の稲荷山に及び現在の東福寺の5倍の広さがあったといい、現在の本町通は当時は古く法性寺域を通過していたことから「法性寺大路」と称されていたといいます。
更に平安中期には忠平の曾孫にあたる藤原道長が五大堂を新たに建立し丈六の木造不動明王坐像を安置して延命息災を祈ったほか、平安後期の関白・藤原忠通(ふじわらのただみち 1097-1164)も氏の長者として権勢を振るった後、晩年の1162年(応保2年)に出家して境内に邸宅を建てて隠退し「法性寺殿」と称し、小倉百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」、そして書に優れ「法性寺流」の祖となったことでも知られています。
また忠通の子で五摂家の一つである九条家の祖・九条兼実(くじょうかねざね 1149-1207)も丈六の阿弥陀像を造立し、後に浄土宗の法然を戒師として出家し「後法性寺殿」と呼ばれ、亡くなった後は法性寺(現在は東福寺)に葬られたといいます。
このように藤原家の隆盛とともに栄えた法性寺でしたが、武家政権が成立に伴う藤原家の衰退とともに寺勢も衰え、鎌倉時代の1239年(延応元年)に九条兼実の孫にあたる九条道家(くじょうみちいえ 1193-1252)がこの地に禅宗寺院である東福寺を建立すると寺域は次第に東福寺に取り込まれて狭小となり、1333年(元弘3年)に赤松則村の軍勢が六波羅を攻略した際の兵火で炎上し荒廃。東福寺が度重なる火災で再建されたのに対し、法性寺は遂に再建されることはなかったと考えられています。
現在の寺院は明治時代に観音堂に旧名を服して尼寺として再興されたもので、藤原道長が建立した五大堂の中尊と伝わる重要文化財の木造不動明王坐像が現在は東福寺の塔頭・同聚院に安置されているなど、所蔵していた寺宝に関しても手を離れてしまったものもありますが、本堂に安置する千手観世音菩薩像は旧法性寺の創建当時の潅頂堂(かんちょうどう)の本尊と伝えられ、日本では珍しい「三面千手」とも呼ばれる27面42手の異形の像として有名で「国宝」に指定されています。
そしてこの千手観音菩薩像は「法性寺殿」こと藤原忠通が42才の時に難病にかかった際に祈祷したところ、数日にして回復したことから「厄除観世音」の名で呼ばれ「洛陽三十三所観音霊場」の第21番札所にも数えられています。