京都市東山区松原通大和大路東入ル二丁目轆轤町、鴨川にかかる松原大橋(以前の五条大橋)から東の清水寺へと通じる松原通の途中、その手前にある「六道の辻」と呼ばれる場所にある浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来坐像。
平安初期、この地に弘法大師空海(くうかい 774-835)が辻堂を建立し、土仏地蔵尊を安置したのがはじまり。
安土桃山時代の1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方し五条河原で斬首刑になった安国寺恵瓊(あんこくじえけい 1539-1600)の死を悼んだ毛利家の家臣・井上安芸守(五左衛門)は地蔵堂に籠ってその菩提を弔った後、1603年(慶長8年)に蓮性を開山として堂宇を建立。寺号を「桂光山敬信院」とし、南都六宗および平安二宗(真言宗・天台宗)の八宗兼学の道場に改めました。
その後衰微するも、江戸初期の1678年(延宝6年)に念故が中興し、更に1727年(享保12年)(1726年とも)、関白・二条綱平(にじょうつなひら 1672-1732)が亡き父・九条兼晴(禅門円学)(くじょうかねはる 1641-77)のために再興し「西福寺」と称し現在に至っています。
一帯は古くより東山山麓の葬送地「鳥辺野(とりべの)」の入口に当たり、平安時代には北の蓮台野、西の化野とともに「三大風葬地」の一つとされた場所でした。
「風葬」とは死体を野ざらしにして朽ち果て自然に土に還るようにする埋葬方法で、現在は広く火葬が一般的ですが、平安の当時は火葬は木材を多く使う必要から費用がかかるため、庶民の間では費用のかからない風葬が一般的であったといいます。
一帯の地名も当然のようにいたる所に骸骨や髑髏(どくろ)が転がっていたことから「髑髏原」と呼ばれ、江戸時代までは普通に「髑髏町」と呼ばれていたといいますが、それでは不吉であるということで江戸初期に京都所司代の命により陶器を作るための道具にちなんで現在の「轆轤町(ろくろちょう)」に改められたといわれています。
そして西福寺のある付近は、現世と冥界の接点すなわち「六道の辻」と呼ばれていた場所でした。
「六道」とは仏教の教義でいう地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(しゅら)・人間(人道)・天上(天道)の六つの冥界のことで、人は因果応報(いんがおうほう)によって死後はこの六道を生死を繰返しながら流転、すなわち輪廻転生(りんねてんせい)するといいます。
「六道の辻」はそれら六道への入口の分岐点とされる場所で、いわばこの世とあの世の境。
古来よりお盆に冥土から帰ってくる先祖の霊は、この六道の辻を通るという信じられており、その入口がこの地にあるといわれていて、かつて周辺には死者の霊を弔うため6つの仏堂があったといいます。
現在も西福寺および六波羅蜜寺、六道珍皇寺の3つの寺が残っており、いずれの寺院も毎年お盆に先立って「お精霊迎え」と呼ばれる先祖の霊を迎える庶民の伝統行事が行われていることで有名です。
この点、西福寺では毎年8月7日~10日の間「六道まいり」が行われ、六波羅蜜寺と六道珍皇寺とともに多くの参拝客で賑わいます。
六道まいりの他に有名なのが、寺宝である「檀林皇后九想図」です。
檀林皇后とは第52代・嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ 786-850)のことで、橘氏の一族では唯一、最初で最後の皇后となった女性。
橘氏は飛鳥時代末期に県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ 665?-733)(橘三千代)・橘諸兄(たちばなのもろえ 684-757)を祖として興った皇別氏族で、姓の代表的なものとして「源平藤橘」の一つにも挙げられるなど、かつては源氏・平氏・藤原氏とともに名門の一つでしたが、平安期には既に没落した状態で天皇の后を出すような力はなかったといいます。
しかし橘嘉智子は修行僧でさえも虜になってしまうという美貌で皇后になったといわれていて、嵯峨天皇との間には第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう 808-850)や大覚寺を創建した正子内親王(まさこないしんのう 810-879)が生まれています。
そして仏教への信仰が非常に強かったといい、現在の天龍寺の一帯に日本最初の禅寺である「檀林寺」を創建したことから「檀林皇后(だんりんこうごう)」と呼ばれるようになりました。
檀林皇后は空海に帰依ししばしば地蔵堂に参詣していたといい、814年には空海が嵯峨天皇の皇子・正良親王が病を得た際に病気平癒を祈願し、無事成長を遂げて54代・仁明天皇となったことから、以後は子供の健康や病気平癒に霊験あらたかな「子育地蔵」と呼ばれ、人々から厚く信仰されるようになったというエピソードも残されています。
そんな檀林皇后ですが、その美貌から恋慕する人が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであったといい、そのことを憂いた皇后はその死に臨んで自分の亡骸は埋葬せずに風葬とし、どこかの辻に打ち棄てるようにと遺言。美しい女性でも死ねば醜く朽ち果てる儚いものであり、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という「諸行無常」の真理を自らの身をもって示したといわれています。
「九相図」はその骸が朽ち果てて土に還っていくまでの変相が生々しく描かれたもので、修行僧の煩悩を断ち切るために制作されたといわれていて、檀林皇后のもの以外にも美女として名高い小野小町のものも存在しているといいますが、西福寺に伝わる檀林皇后を描いたといわれる「檀林皇后九想図」は江戸初期のもので、「六道まいり」の際に地獄絵と呼ばれる「熊野観心十戒図」とともに一般公開されています。
この他に境内の「末廣不動尊」は鎌倉初期に後白河法皇(ごしらかわほうおう 1127-92)が熊野詣の千日修行の満願を感謝し、那智の不動尊を勧請して地蔵尊の守護神にしたといわれているもので、商売繁盛の信仰があるとされています。
また西福寺の向かい店を構える「幽霊子育餅本舗」は、若い女性が亡くなった後に墓の中で出産し、生まれた子を育てるために夜な夜な飴を買いに来たという伝説の残る「幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)」を販売する店で、六原の名物として知られています。