京都市上京区出水通千本西入七番町、出水通と六軒町通との交差点にあり、「瓢箪寺」「桜寺」の通称で知られる真言宗善通寺派の寺院。
平安初期、弘法大師空海により河内国古市郡中村、現在の大阪府羽曳野市にて創建されますが、後に衰退。
その後、鎌倉時代の正嘉年間(1257-59)に第80世東寺長者で第45世醍醐寺座主・覚済(かくぜい 1227-1303)(別名・山本僧正)によって京都に移されて、京都油小路五条坊門にて再建され、以降、3度の移転を経て、江戸中期1708年(宝永5年)の「宝永の大火」に遭った後に現在地にて再建されています。
皇室の尊崇厚く、特に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう 1571-1617)と第111代・後西天皇(ごさいてんのう 1638-85)により勅願寺とされ、中でも後西天皇からは「観世音菩薩」の名号と御所紫宸殿の左近の桜の分木を下賜されたことから「桜寺」の別称で呼ばれています。
「本堂」の本尊・薬師如来は愛知県新城市の鳳来寺の薬師如来と同木同作で、鳳来寺開山・利修仙人の作と伝わり、鎌倉時代に奈良の東大寺大仏の再建に際して重源に授与され、共に諸国を遍歴した後に当寺に持仏として奉安。
その後、後陽成天皇の病気平癒をきっかけに「薬師如来」の名号と菊の御紋が寄付されて勅願寺となり、現在も「峰薬師」の通称で「京都十二薬師霊場」の第6番の札所本尊として知られています。
また「聖天堂」に安置されている歓喜天像は「聖天さん」の別名でも知られ、原型とされるインド神話のガネーシャ神は像を神格化した神様で、元々は気性が荒く、事業の妨害する魔王として恐れられる存在でしたが、やがて障害を除き幸福をもたらす神として信仰されるようになりました。
現世利益に功徳があり、聖天のシンボルである「大根」は夫婦が和合して子宝に恵まれるご利益、また「巾着袋」は砂金袋(宝袋)で金銀財宝を呼び寄せることから「融通さん」とも呼ばれ、商売繁盛にご利益があるといいます。
この点、普段は観光としての拝観はしていない寺院ですが、歓喜天の縁日である毎月1日及び16日には自由に本堂および聖天堂の拝観が可能となっています(5:00~17:00)。
そして最もよく知られているのが2月3日の「節分会」で、年に一度だけ山門が開かれ、瓢箪(ひょうたん)のお守りが授与されることで有名です。
弘法大師空海が中国より持ち帰った様々な願いを叶えるといわれる「如意宝珠(にょいほうじゅ)」を2つ重ねると瓢箪に似ていることから鎌倉時代頃に、瓢箪がお守りに用いられるようになったといい、この瓢箪は朝廷の厚い庇護を受け、明治以前には朝廷と幕府のためだけに祈祷が行われていたといいます。
また豊臣秀吉は寺の歓喜天を信仰していたといい、武運を祈願して出陣の度に千成瓢箪(ひょうたん)を寺に寄進し、千成瓢箪を旗印に頂いたので「ひょうたん寺」との通称で呼ばれるようになったともいわれています。
この点、現在の「節分会」においては弘法大師が中国唐で恵果和上により伝授されたという如意宝珠と歓喜天の秘法でもって大寒より七日間行い祈祷されるという瓢箪のお守り「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」が一般にも授与されるようになっていて、商売繁昌をはじめとする所願成就にご利益があるといわれ、大勢の参拝客で賑わいます。
この他に「瓢箪寺」の通称で「通称寺の会」の札所に、また本堂脇壇の聖観音菩薩が「洛陽三十三観音霊場」の第29番の札所本尊になっているほか、境内墓地の東側には幕末の「池田屋事件」のきっかけとなった攘夷派の志士・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう 1829-64)の墓があることでも知られています。