概要
1889年(明治22年)の町村制の施行により綴喜郡井手村が成立
1927年(昭和2年)、町制施行により井手町となる
1958年(昭和33年)。井手町と多賀村が新設合併し、改めて井手町が発足
主なスポット
- 寺社
- その他
- ショッピング
1889年(明治22年)の町村制の施行により綴喜郡井手村が成立
1927年(昭和2年)、町制施行により井手町となる
1958年(昭和33年)。井手町と多賀村が新設合併し、改めて井手町が発足
町の南部
井手村、相楽郡田村新田が合併
玉川の蛙を詠んだ和歌は83首を数えるという
奈良時代、聖武天皇の御代に左大臣を務めた橘諸兄が橘氏の氏寺として創建したと伝わる寺院跡
これまでの文献や発掘調査の結果にり約240m四方の広大な寺域があったことが分かっている
聖武天皇の玉井頓宮にあったものと伝わり、橘諸兄の井戸と語り継がれている
井手寺を建立するなど井手の地を拠点として活躍した橘諸兄(たちばなのもろえ 684-757)は奈良時代の皇族・公卿で、初代橘氏長者
初名は葛城王で、後に臣籍降下し、母の姓であった橘宿禰(すくね)を賜って諸兄と称した
藤原不比等の四子が病没して藤原氏が衰退すると政権を掌握し、第45代・聖武天皇の下で恭仁京などの度重なる遷都や東大寺大仏の造営などを主導、743年には正一位左大臣になり全盛を極めるも、藤原仲麻呂の台頭によって権勢を失った
文人としても知られ、「万葉集」にその作品が見られるほか、父・美努王とともに井手の地を愛したことで知られていて、玉川岸に山吹を植えたと言い伝えられている
大安寺旧境内附で国史跡
井手町のまちづくりの拠点として整備された農家風の建物で、休憩などに使用できる
名前の由来の「椿坂」には一度出会い、別れた男女が再びめぐり逢う「井手の下帯」伝説が残る
11月下旬に開催される奈良時代にこの地に別荘を構えた橘諸兄や、この地で晩年を迎えたという小野小町にちなんで奈良・平安期の衣装に身を包んだ行列が町を練り歩く「時代絵巻行列」のメイン会場としても使用されている
平安時代を代表する女性歌人で、六歌仙の一人として知られる小野小町は、かつて井手にあった井手寺で没したと伝わっていて、玉川の山吹を詠んだ歌も残されている
「駒岩の左馬」は重さ数百トンの花崗岩の大きな岩の表面に刻まれている約1メートル四方の馬で、平安末期の1137年(保延元年)の作と伝わる
玉津岡神社の社記によると元々は玉川左岸の株山にあり、雨乞いと玉川の水を治めるための絵馬としての駒岩で、水を司る神として信仰されていたという
しかし江戸期頃からは掘られた馬が右半身で左利きの職人が彫ったものであることから器用と連想されて芸事上達、更には左馬が馬の字を反対に書くことから「うま」「まう」「舞う」となり、裁縫や生け花、茶道、舞踊など女性の芸事の守り神として信仰されるようになったと伝わる
1953年(昭和28年)の南山城水害の時に玉川の対岸から転がり落ち、彫刻は地面の下を向いてしまったが、地元民の協力によって地面が掘り下げられて見ることができるようになり、現在は左馬ふれあい公園として整備されている
町の北部
1889年(明治22年)の町村制の施行により、多賀村が単独で自治体を形成
市街地を流れる清流の一つ、南谷川に面した公園
井手町では「源氏ボタル保護条例」が制定され住民による環境保全とゲンジボタル保護の取り組みが続けられており、6月には地元民による「ほたるまつり」も開催される
多賀の町並みから万灯呂山の麓へ向かう丘陵地帯に位置し、ぶどう狩り、みかん狩り、柿狩り、さつまいも掘りなどが楽しめる
春や秋に収穫できる新鮮な野菜や果物の収穫体験が楽しめる
町の北端、木津川の支流・南谷川の静かな渓谷ににある滝で、落差13mを岩間を縫って糸のような水が流れ落ちる
龍王神は雨の神として知られ、かつて日照りが続いた際には雨乞いの儀式が行われていたと伝わる
大峰山の山頂にある展望台
標高300mの山頂から見下ろす京都府南部の大パノラマは絶景で、その眺望は京都府の景観資産にも登録されている
豊かな自然に包まれた京都府最大級のため池
2007年には京都府景観資産に、また全国ため池百選にも選定されている
池の周辺には遊歩道や浮御堂などが整備されていて自由に散策が楽しめるほか、バンガローやキャンプ場、屋根付きBBQスペース、管理棟には食堂や団体利用室、シャワー室もあり、キャンプやBBQ、カヤックなどのアウトドアが体験できる
玉川沿いにある木立に囲まれた中に残る歌碑
鎌倉末期の1331年(元弘元年)、武家政治を打破し、天皇による政治を取り戻さんと笠置山で挙兵した後醍醐天皇は、金剛山千早城へと逃れる途中、幕府軍に追い詰められ大正池の近くで捕われの身となった
逃れようとする途中に松の下で休んだ後醍醐天皇が供の藤原藤房と交わした「さしていく笠置の山をいでしより 天が下にはかくれがもなし」の歌は「太平記」の情景をよく伝えるものとして、歌碑に刻まれている