最澄が開山した古刹、丹波・亀岡随一の桜と紅葉の名所
790年最澄が開山し天台宗の一大道場だったが度重なる戦乱で荒廃。江戸期に再興され臨済宗妙心寺派に。
最澄自刻の本尊薬師如来坐像は重文。
湯の花温泉近くに位置し丹波亀岡随一の紅葉の名所で樹齢300年の大木は必見。本堂裏の朝日山は豊かな自然の宝庫でふれあいの谷川や遊歩道、梅林園などを整備
神蔵寺(佐伯薬師)のみどころ (Point in Check)
京都府亀岡市稗田野町佐伯岩谷ノ内院ノ芝、京都市の北西、「京の奥座敷」とも呼ばれる亀岡市・湯の花温泉郷にほど近い朝日山の東麓に位置する臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は朝日山、本尊は薬師如来像。
朝日山神蔵寺は奈良時代の790年(延暦9年)に天台宗の開祖・伝教大師最澄(さいちょう 767-822)が比叡山での修業の時、自らこの山を訪れて開基した天台宗の行場であったと伝わり、一条天皇の正暦年間(990-94)には仏堂伽藍や塔頭も整備されて隆盛を極め、源頼光ほか源氏一門の崇敬も篤かったといいますが、平安末期の1180年(治承4年)5月、鵺退治で知られる源頼政(みなもとのよりまさ 1104-80)が後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう 1151-80)を奉じて平家に敵対し兵を挙げた際に、当寺の僧徒たちがそれに加勢し大津・三井寺(園城寺)と呼応して宇治川に馳せ参じたものの、頼政が敗れたため平家に寺領を没収されて堂塔は荒廃してしまいます。
その後、鎌倉時代の1235年(嘉禎元年)、天台宗の僧・達玄が再興し、旧観を復するとともに女人禁制を解き、僧坊は26を数えたといい、また応永年間(1390-1420)には室町幕府管領・細川頼元(ほそかわよりもと 1343-97)の帰依もあり、遠近老若男女の篤い信仰を得て寺は隆盛しますが、1573年(天正3年)に織田信長の家臣・明智光秀(あけちみつひで 1528?-82)が丹波平定のために神社仏閣を焼き払った際にその兵火により焼失。
もっとも信者の機転により薬師本尊と両菩薩は菰に包んで岩山に隠して難を逃れたといわれていて、現在寺の脇を流れる清流「菰川」はその伝説に由来したものだといいます。
そして江戸初期の1653年(承応2年)に浄土宗光明寺派の願西法師が本堂・阿弥陀堂・鐘楼を建立して復興を進め、更に1679年(延宝7年)に亀山藩第2代藩主・松平忠昭(まつだいらただあき 1617-93)の帰依により臨済宗妙心寺派の高隠玄厚を招いて中興し、臨済宗寺院となり現在に至っています。
収蔵庫に安置されている木造薬師如来像は最澄自らが比叡山根本中堂の薬師秘仏と同木で刻んだものともいわれ、また脇侍の日光・月光の両菩薩も同時代の作と鑑定されていて、藤原末期の様式を今に伝えるものとして1950年(昭和25年)に国の重要文化財に指定。
平成元年(1989年)に開創された「西国四十九薬師霊場」の第43番札所になるなど、口丹波の「佐伯薬師」「稗田野薬師」と呼ばれて親しまれおり、毎年正月1月1日~3日と4月8日の「花祭り」、そして9月12日の「薬師会」の際に御開帳されています。
また豊かな自然に包まれた境内には数多くの楓の木が植えられ、秋は丹波・亀岡随一の紅葉の名所として知られおり、中でも本堂前にある樹齢400年の大きなイロハもみじは高さ約13mの巨木で「亀岡の名木100選」にも選ばれ、例年11月上~中旬の見頃の時期には真っ赤に色づき、ライトアップや音楽ライブが行われるのが恒例となっています。