京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷空広、京都府南部のお茶の産地の一つとして知られる宇治田原町にある施設で、「緑茶の祖」「煎茶の祖」と呼ばれる永谷宗円(ながたにそうえん 1681-1778)の生家があった場所とされています。
永谷宗円は名を義弘、通称・宗七郎といい、宇治田原湯屋谷に生まれ同地でお茶づくりに励んでいましたが、43歳の頃にもっと美味しいお茶は作れないのかと色々な方法を試し始め、江戸中期の1738年(元文3年)、58歳の時に日本固有の「青製煎茶製法(あおせいせんちゃせいほう)」と呼ばれる製茶法を開発し、日本の緑茶製法の基礎を築いたことで知られています。
お茶は奈良・平安時代に中国から輸入されて貴族階級の飲み物となっていましたが、その後、鎌倉初期に「喫茶養生記」を著した臨済宗の祖・栄西が宋から持ち帰ったお茶の種を元に京都の高雄栂尾や宇治にて栽培が始まったことで一般に広まり、喫茶の習慣が生まれ、やがて千利休などにより茶の湯という日本独自の文化が形作られていきました。
もっとも当時のお茶といえば大きく2つに大別されていて、高級な抹茶は富裕層が楽しむもので、庶民が飲むお茶といえば、文字通りの茶色、色が赤黒く味も粗末な煎茶だったといいます。
そんな中で宗円は当時の宇治で取り扱われていた抹茶の製法にヒントを得て、新芽の茶葉を蒸した後に「焙炉(ほいろ)」と呼ばれる器具の上で手揉みし乾燥させるという製法を15年もの歳月をかけて考案し、これによって薄緑色の良質の煎茶を得ることに成功したのです。
宗円はこれを携えて江戸に赴き、日本橋の茶商・山本嘉兵衛(かへえ)(のちの山本山)を通じて販売しましたが、この色・香・味のいずれもが格段に優れた製茶法をを自分一人のものとせず、周囲の人々に広く伝授したため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」として瞬く間に全国に普及し、皆がこの製法でお茶を生産するようになったといいます。
晩年出家して宗円と号し98歳でその生涯を閉じますが、茶業の他にも湿田改良などの事業を行って村人を指導したという篤志家でもあった宗円を地元民は「干田大明神」として崇敬し、生家付近に祠が営まれたといいます。
後に煎茶の創始者であり、宇治茶中興の祖である功績を讃えて「茶宗明神社(ちゃそうみょうじんしゃ)」と名を改め、現在も全国の茶業者から篤く信仰されていて、毎年4月に春の大祭、10月に秋の大祭が執り行われています。
ちなみにお茶漬け海苔やふりかけ、味噌汁などを製造・販売している全国的にも有名な食品メーカー「永谷園」は1953年(昭和28年)4月に宗円の子孫の一人で10代目にあたる永谷嘉男(ながたによしお 1923-2005)が東京で創業した企業で、また直系の子孫である三之丞家は明治期に宇治市の六地蔵へ移り茶問屋「永谷宗園茶店」を営んでいます。
宗円の生家は当初は母屋の他にも製茶小屋や倉庫を備えた大規模なもので、その敷地は隣接する茶宗明神社の横にまで及んでいたといいますが、現存はしておらず今も一部残る石垣などにその名残りをとどめています。
そして現在の茅葺き屋根の建物は1960年(昭和35年)に地元有志の手によって再建された後、2006年(平成18年)に茶業関係者や地元区民らが結成した「永谷宗円翁顕彰会」の手で集められた寄付金によって翌2007年(平成19年)に屋根の全面葺き替え工事などの修復が行われたものですが、建物の内部には製茶に使われた貴重な「焙炉(ほいろ)」跡や製茶道具が保存されていることから、宇治田原町指定文化財に指定されています。
また京都府の「地域力再生プロジェクト」の支援を受けて休憩用の東屋や手洗所も整備されたほか、室内にはモニターも設置され映像で宗円の足跡やお茶の製法を知ることができるようになっており、土日祝には内部を見学することもできます。
その他にも周辺には宗円を祭神として祀りるが隣接するほか、日本遺産に認定された石垣の風情の残る湯屋谷の街並みを歩くこともできます。