京都府綴喜郡宇治田原町南宮ノ上西、京都府の南部、南山城の宇治田原町の南地区に鎮座し、南地区の氏神「一の宮」として「田原祭(三社祭)」を構成する三社のうちの一社に数えられる神社です。
社伝によると鎌倉時代の1283年(弘安6年)6月に三社の一つである荒木の大宮神社から分祀されたのを起こりとされていますが、それよりも古い時代に豪族が土地を寄進した記録もあることから、正確な創建年代は定かではないといいます。
一方で、一帯は古くより御栗栖大明神の鎮守の森として崇められており、奈良時代の770年(宝亀元年)に栗林の傍に社を建て、守護神として天照大御神と須佐之男命の誓約において生まれたとされ山城の国の守護神でもある「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」を祀ったのがはじまりであるともいわれています。
この点「宇治拾遺物語」によれば、古代史において最大の内乱といわれる「壬申の乱」の直前、大津京を脱出した大海人皇子(後の天武天皇)は、吉野への道中に立ち寄った里で村人より供された煮栗焼栗を土に埋めて戦勝祈願をしたといいます。
その栗がやがて芽生えて成長したのが社の傍らにあったとされる栗林で、収穫された栗は宮中へ献上されたという「天武天皇の煮栗焼栗」の伝承の舞台であるといいます。
この伝承の栗林は現在は茶畑に取って代わり昔日の面影はありませんが、以前この地から産出される栗は毎年11月15日に禁裏御所に献上するのが習わしで、その光沢と味の良さによって知られていて、1887年(明治20年)まで続けられていたといい、社名である「御栗栖」も朝献の栗林が次第に人々の信仰を集めるうちに定着したものではないかと言われています。
境内には一間社流造の本殿のほか、末社として天皇家の皇祖神・天照大神を祀る「大神宮」、学問の神様・菅原道真を祀る「天満宮」、そして大海人皇子を祀り幼い子供の守護神とされる「子守神社(皇森社)」の3社が祀られていて、また杉(スギ)・樫(カシ)・楓(カエデ)を中心に多くの樹木が繁茂し、また野生動物も多く見られるなど良好な自然環境が保全されていて、中でも本殿奥にある大きな杉の御神木は町内でも最大級の樹木で「御栗栖神社の大杉」として町指定の天然記念物となっています。
行事としては毎年10月の体育の日の前日の日曜日に開催される「田原祭(三社祭)」が有名です。
南の御栗栖神社(一宮)をはじめ、荒木の大宮神社、立川の三宮神社を合わせた旧田原郷三社の祭礼で、3日前の「神幸祭」および当日の「還幸祭」にて3基の神輿が本社と御旅所の間を往復する、宇治田原町内で最大、南山城でも有数のお祭りとして知られています。
平安中期の939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」を平定した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(俵藤太(たわらのとうた))がその功績によって田原の領主となったことを祝ったのがはじまりといわれていて、元々は五穀豊穣を祝う秋祭りで、700年ほど前から続いているといい、奈良の春日大社若宮神社の例祭「春日若宮おん祭」に似た芸能(舞物)の奉納や駈馬神事、氏子の集団である15座の「宮座」による祭りの運営など、中世的要素が強く残ることから歴史的・資料的価値も高く、還幸祭で奉納される芸能(舞物)は京都府の無形民俗文化財にも登録されています。