京都府木津川市木津大谷、JR木津駅より南へ約700m、国道24号線と国道163号線が交差する大谷交差点の北東側に大きな鳥居があり、登り坂の向こうにある天神山の山腹に西面して鎮座する神社。
式内社で、旧社格は郷社。
社伝によれば飛鳥時代の659年(斉明天皇5年)9月、生国魂尊(いくくにたまのみこと)を祀ったのがはじまりと伝わります。
そして708年、第43代・元明天皇が岡田離宮に行幸しており、その際に「賀茂、久仁」の二里の人々に稲30束を施したとあり、当時よりその二里にはそれぞれ現在の加茂町にある岡田鴨神社と木津町にある岡田国神社が祀られていて、同等の扱いを受ける神社として存在していたと考えられています。
両社は対になっていて、奈良時代、第45代・聖武天皇の時代の740年(天平12年)から744年(天平16年)までのわずか4年間だけ都が置かれた恭仁京(くにきょう)の鴨が左京、国が右京に位置したといいます。
一方、国史では第56代・清和天皇の時代、「日本三代実録」の859年(貞観元年)正月27日条にて「岡田国神」に「従五位上」の神階を授けるとの記述が初見で、その後平安中期の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」では相楽郡六社の一社として大社に列しており、その当時から一帯の有力な神社であったと考えられます。
平安中期の938年(天慶元年)11月には相殿の「八幡宮」が創建されています。
そして平安時代に菅原道真(すがわらのみちざね 845-903)を神格化し祀る「天神信仰」が高まったのを受け、当社にも天神が合祀されることとなり、以降近世に至るまで「天神社」「木津の天神さん」と呼ばれて親しまれ、大路村・千童子村・枝村・小寺村・南川村の旧木津郷内五か村の氏神として信仰を集めてきました。
戦国時代には1582年(天正10年)の「本能寺の変」の当時堺にいた徳川家康の危機に際し、当社の神主の息子2名がいわゆる「伊賀越え」にて木津川から伊賀までの道案内を務めたといい、その功績により1604年(慶長9年)に神社の背後に広大な山林を賜ったといいます。
その後、1873年(明治6年)5月に郷社に列格した後、1878年(明治11年)3月に当社が延喜式内・岡田国神社であると国により確定され「岡田国神社」と改め現在に至っています。
木津御霊神社、田中神社とともに「木津三社」とも呼ばれ、1973年(昭和48年)に日本住宅公団が木津東部にに木津ニュータウンを建設する計画を発表すると、これに伴って木津御霊神社、田中神社は移転を余儀なくされます。
当社も4万坪の境内地の一部を日本住宅公団に買却しており、その売却費用を元に1983年(昭和58年)に新たな社殿が建立されていますが、その一方で旧社殿一式もそのまま北側の一段低い場所に残されており、新社殿に加えて旧社殿がそのまま残るという全国的にみても極めて珍しい境内になっています。
ちなみに旧社殿の方は、室町時代の惣の社の姿を伝える重要なものとして1988年(昭和63年)に「京都府登録文化財」に登録されていて、また神社の森一帯が「京都府文化財環境保全地区」となっています。
毎年10月の第4土日に行われる「木津御輿太鼓祭(布団太鼓祭)」は木津三社の合同で開催され、木津川を代表する秋祭りの一つ。
「布団太鼓台(ふとんだいこだい)」と呼ばれる豪華な彫刻と刺繍を施した布団の形をした神輿が各町内を出発しそれぞれ氏神を祀る神社へと向かうもので、乗り子を乗せて50~60名で担ぎ町内を練り歩く姿は勇壮で迫力満点。
江戸末期に五穀豊穣を祈願して始められたといい、木津川市の無形民俗文化財に指定されていて、かつては9基あったといいますが、現在は敬神組・拝神団・義友会・小寺・社町・西町(2017年に復活)の6基になっており、土曜日に御霊神社、日曜日の午前に田中神社、午後に岡田国神社をそれぞれ参詣します。
また祭りに先立ち木津川市役所前駐車場にて、御輿のライトアップも行われ、子どもが対象の御輿乗り子体験や露店なども出店し、かつて御輿が夜間運行されていた頃の雰囲気を楽しめるようになっています。