京都府城陽市富野荒見田、JR奈良線の長池駅から西へ約600mの位置に鎮座する神社。
祭神は天火明(あめのほあかりのみこと)、天香語山尊(あめのかぐやまのみこと)、天村雲尊(あめのむらくものみこと)、阿比良依姫尊(あひらよりひめのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめじんじゃ)の5柱。
創建の詳しい経緯は不明ですが、社伝では飛鳥時代の647年(大化3年)9月に長池の東方の山間にある小篠峯の地に神霊が降り、在地の管領・三富野部連金建が神殿を創建して天神5柱を祀り「阿良美五社大明神」と称したのがはじまりで、以後山麓一帯は「五社ヶ谷(ごしゃがだに)」と呼ばれるようになり、古くより奈良街道に面する聖地であったといいます。
そして奈良時代の京都の文化風土や地勢などを記録・編纂した713年(和銅6年)の「山城国風土記」逸文に「荒海の社祇社、み名は大歳の神」とあることから、その頃には実在していたとみられます。
この点、大歳神は素戔嗚尊の子で穀物の神とされていますが、荒見(荒海)とは荒水の転訛によるものとみられ、木津川の水害などの水禍を避けるために水神を祀ったとも考えられています。
また平安中期927年(延長5年)にまとめられた当時官社に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」の中に延喜式内社として記載のある「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「荒見神社」については当社か久御山町田井の荒見神社か意見が分かれていますが、近代になりいったんは久御山町の方が式内社として治定されましたが、現在では判断が分かれていて、城陽の荒見神社の方が有力だともいわれています。
その後、室町時代の1461年(寛正2年)3月に奉拝者の生業が盛んとなったため、山間の五社ヶ谷から平野部の現在地に移転。
吉田神道を継承する吉田家当主・ト部兼知によって神殿が復元・造営され「安羅見五社天神宮」と称するとともに、摂社・御霊社も同時に遷祀され、江戸時代には富野・長池集落の産土神として信仰を集め、明治時代の1887年(明治20年)に「荒見神社」と改称され現在に至っています。
江戸初期の1604年(慶長9年)に再建された本殿は総檜皮葺の屋根に正面柱間が三間の「三間社流造(さんけんしゃながれづくり)」で、細やかな彫刻が施されているなど桃山時代の建築様式の特徴を良く表しており、1906年(明治39年)に国の重要文化財に指定。
その他に境内摂社・御霊社が1984年(昭和59年)に京都府登録有形文化財、また神門・透垣・中門が城陽市文化財に指定されているほか、入口の鳥居の奥にある薬医門は神仏習合の面影を残すものとして注目したい所です。
また境内の東側をJR奈良線と府道24号が南北に通るとともに、大型総合スーパーのアルプラザ城陽が隣接し、また北側と西側は水田、そして南側には住宅地が広がるなど周辺一帯で開発が進められている中、境内の四方を堀割で囲んだ境内全域が森に覆われていて、参道近辺にはクスノキやクヌギなどの名木や古木が残されており、神社の森一帯が1984年(昭和59年)に「荒見神社文化財環境保全地区」として京都府文化財環境保全地区に指定されています。
行事も多くあり、6月の「茅の輪くぐり」では江戸後期に各地で流行した伊勢神宮への集団参拝の際に踊られたことで知られ、城陽市に伝わる民族芸能「おかげ踊り」が奉納されることでも知られ、10月には例大祭のほか、抹茶の原料となる「碾茶(てん茶)」の日本一の生産地とされる城陽産茶をPRする「城陽茶まつり」なども開催され、多くの地元民から親しまれている神社です。