京都府久世郡久御山町森宮東、京都市の南に位置する久御山町ののどかな田園風景の広がる御牧(みまき)地域にある糺の森や藤の森などで知られる「山城八森(やもり)」の一つにも数えられた「玉田の森」の中に鎮座する神社。
かつて京都にあった巨椋池(おぐらいけ)の西側にあたるこの地は、平安初期から禁猟地とされ、平安時代の古歌にも詠まれた「美豆厩」「美豆牧」「美豆の御牧」などと呼ばれる朝廷の管理する広大な牧場でもあったことから「御牧村」と呼ばれていました。
この点「久御山町」という地名は戦後間もない1954年(昭和29年)に町村合併にて「御牧村」と「佐山村」が合併し新たな町が誕生することになった際、それぞれの村から1文字と同町が属する郡名の「久世郡」からも1文字を取り組み合わせて「久御山」と名付けられたものだといいます。
そして当社はその御牧郷の8か村、すなわち東一口村・西一口村・釘貫村・相島村・中島村・坊之池村・森村・江ノ口村の氏神として朝野の崇敬を集めた神社です。
社伝「日本最初方除八社大明神略記」によれば、元明天皇の時代の710年(和銅3年)、その勅願によって創建されたと伝わり、往古は「美豆野神社(みづののかみやしろ)」、または宇治川と桂川の合流点付近にあった古代の港「丹波津」にちなんで「丹波津宮(たにはのつのみや)」と称されていました。
当初の祭神は、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、市杵嶋姫命の四神であったといいますが、その後、平城京への遷都に際し、鬼門除けの勅願によって応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢命の四神を勧請し、合わせて八神となったと伝えられていて、現在の祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、誉田天皇(応神天皇)(ほむたのすめらみこと(おうじんてんのう))、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)の4柱となっています。
またその他にも境内には姫大神社(ひめのおおかみしゃ)・稲荷神社・市杵神社(いちきじんじゃ)・金比羅(こんぴら)の四社があり、本社の祭神と合わせて八神を祀ることから「玉田八社大明神」とも称されているといいます。
そして社名は「延喜式神名帳」への記載はなく延喜式の式内社ではなく郷村社であったようですが、桓武天皇が山城国に遷都する際に鬼門除けの伺いを立てたことから「方除け」の神として信仰を集めていて、現在も建築や移転などに際し鬼門封じの祈祷を依頼する人は後を絶たないといいます。
また神社に伝わる江戸中期の「御霊験名馬火鎮由来記」には、聖武天皇の時代、橘諸兄が御牧の地で育った馬を献上したところ、宮中の火災を知らせ、火中に飛び込んで身を挺して火災を鎮めたことから馬を祀る塚が作られ「火鎮」と命名されたとの由緒が伝わっていて、現在に至るまで「火難除け」の社としても崇敬されているといいます。
現在の本殿は四間社流造、切妻造、檜皮葺の建物で、当社に保存されている棟札から安土桃山時代の1586年(天正14年)5月に御牧城主「御牧勘兵衛尉尚秀」が願主となって再建された後、江戸初期の1624年(寛永元年)に淀城主・板倉伊賀守高勝ならびに御牧八郷の氏子惣中によって造営が行われた記録が残っているほか、江戸後期の1863年(文久3年)にも改修が行われていて、2018年(平成30年)3月27日に末社市杵社、一の鳥居、二の鳥居とともに国の登録有形文化財に登録されています。
また玉田神社には、本当座(東一口)・御幣座(東一口)・御箸座(東一口)・明主座(中島)・森当座(森)・相島北当座(相島)・相島中当座(相島)・玉弓講(坊之池)の宮座があり、毎年10月の「秋祭り(例大祭)」にはおよそ350軒で構成される氏子の各宮座が、帽子・狩衣装束で行列を整え、神宝を奉じて社参する伝統の神事が続けられているといいます。
その他にも行事として7月10直前の日曜日に開催される「土割祭」が有名で、農作物の五穀豊穣や地域の繁栄を祈願して行われる雨乞いの神事で、大干ばつと疫病の流行が重なったことを受け、江戸後期1771年(明和8年)に始まったと伝わっています。
社務所前で大釜に湯を沸かし、白装束の巫女が神酒や洗い米を入れた後、両手に持った笹の葉を湯に浸して勢いよく何回も振りまいて悪疫を払う「湯立神楽」の神事が中心で、巫女の降り注ぐお湯にかかると無病息災の御利益もあるといわれています。