京都府久世郡久御山町佐山双栗、京都府南部の久御山町の南側、国道1号線と府道15号宇治淀線の交わる佐山の交差点から府道15号を東へと進んだ先の住宅街に現れる鎮守の森に鎮座する神社。
社伝によれば、元々は羽栗郷(現・佐山)・殖栗郷(現・佐古)・拝志郷(現・ 林)の3つの村の鎮守社であったといいますが、後に佐古村に若宮八幡宮が創建されてからは佐山・林の2か村の氏神となっています。
社名の由来については諸説あり定かではないといいますが、1883年(明治16年)の「久世郡神社明細帳」には羽栗と殖栗の問に鎮座していたから「隻栗」と称したとあり、またこの地を支配した古代の豪族・羽栗氏の祖神を祀った氏神社であり、その羽栗が双栗に転訛したともいわれています。
創建の詳しい経緯については不明なものの、平安初期の「三代実録」の859年(貞観元年)正月27日の条に、従五位下の神位を賜り、延喜の制には小社に列せられ、更には平安中期の927年(延長5年)にまとめられ当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」においては「山城国久世郡雙栗神社三坐」と記されているなど、古くより存在していた神社であることが分かります。
また延宝4年(1676年)の奥書を持つ「椏本(あてもと)八幡宮縁起」によれば、平安後期の1125年(天治2年)2月のこと、この地にあった大きな椏の木が、毎夜鳩峯(男山)から差す金色の光によって輝いたため、郷民は畏れおののき、日が暮れると戸を閉ざして一歩も外へ出なかったといいます。
そしてその7日後、橘氏に「椏の木の元に八幡宮を勧請し、国家安全を祈らば我よく庶民を守るべし」との夢告があったことから、朝廷に願い出て椏の木の元に神祠が造立されました。
その後、平安末期の1162年(応保2年)に当宮に勅使が立てられて、勲一等を受けて「椏本一品八幡宮」と号し、神田を賜ったといいますが、これは石清水八幡宮の神威が全国に広がり、佐山郷一円の地が八幡宮の荘園になった頃の出来事であり、このため神仏習合が顕著であった八幡宮の影響を受けて佐山・林に5か寺の神宮寺が建立され、また社殿には大般若経六百巻が収められていたといいます。
明治期に入り「神仏分離令」が出されて神宮寺が廃寺となると、社殿に保存されていた大般若経は佐山の大松寺に移管され、更に1882年(明治15年)には椏本一品八幡宮の呼称も「雙栗神社」の旧号に復されて現在に至っています。
本殿は平安末期の1162年(応保2年)に建造された記録が残っていますが、現在のものは精巧な蟇股(かえるまた)や旧脇障子間の「栗鼠と葡萄(りすとぶどう)」の彫刻や形式手法から、屋根の葺き替えを行ったと記されている室町末期の1494年(明応3年)頃に再建されたと考えられ、国の重要文化財に指定されていて、1981年(昭和56年)10月には大規模な修復工事により創建時の極彩色の華麗な姿が再現されています。
また2019年(令和元年)には玉垣も江戸後期の姿に復元されたほか、2014年(平成26年)4月には拝殿、本殿門、玉垣、石鳥居が国登録有形文化財に登録されました。
3330坪の広大な神域には照葉樹をはじめ針葉樹、更には「黒椿」と呼ばれる薮椿の原種が数多く見られ、静寂な雰囲気が漂っていますが、中でも本殿の裏、北東にある御神木の楠(クスノキ)の木は樹齢400~500年といわれ、樹高30m、幹周5.35mの大きさを誇り、1991年(平成3年)6月に「京都の自然200選」に選定されているほか、樹形も優れ樹勢も旺盛であり、クスノキの巨樹として極めて貴重なものであることから、1996年(平成8年)2月には「雙栗神社のクスノキ」として久御山町の天然記念物にもなっています。