京都市山科区四ノ宮泉水町、旧東海道(三条通)沿いにある臨済宗南禅寺派の寺院。
「山科廻地蔵(やましなめぐりじぞう)」「山科地蔵(やましなじぞう)」「四ノ宮地蔵(しのみやじぞう)」ともいい、山号は柳谷山(りゅうこくざん)、本尊は聖観世音菩薩。
元々この地は平安時代の859年(貞観元年)、仁明天皇の第4皇子・人康親王(さねやすしんのう)が両眼を失明し、山科御所を営み隠棲したとされる場所でした。
親王は十禅寺の開山で、琵琶の名手だったことで知られ、琵琶法師の祖ともいわれる人物で、百人一首の蝉丸(せみまる)と同一人物とする説もあり、「四ノ宮」という地名の由来もここから来ているのだといいます。
その後、室町時代の1550年(天文19年)に人康親王の末葉で南禅寺第260世・雲英正怡(うんえいしょうい)が、人康親王の菩提を弔うために現在地の北に創建し、更にその後現在地に移されています。
そして江戸時代には、毎年2月16日に近くの四宮川の河原に検校が集い、盲人・座頭の祖神である人見親王を弔い、誦経、検校による琵琶演奏が行われていたといいます。
何といっても有名なのは「六地蔵めぐり」の一体となっている地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像で、旧東海道に面して建つ六角堂に安置され、「山科地蔵」として信仰を集めています。
この地蔵菩薩像は平安初期の852年(仁寿2年)に、参議・小野篁(おののたかむら)が、一度冥土へ行った際に生身の地蔵尊を拝んだことで蘇った後、木幡山に立つ一本桜の一木から刻み6体の地蔵を彫り出したうちの一つと伝えられ、当初は6体とも伏見の六地蔵(大善寺)に安置されていました。
その後、平安末期保元年間(1156-59)の1157年(保元2年)、都で疫病が流行した際に後白河天皇が、都の守護および往来の安全、庶民の利益結縁を祈願して、平清盛や西光法師に命じ、京へと通じる6つの主要街道の出入口に一体ずつ分祀されました。
山科地蔵尊は旧東海道に面して立つ六角堂に安置され、東海道を旅する人々の厄災を除いてくれる東海道の守護仏として大切にされてきたほか、身の丈約3mの霊像は、子宝の霊験でも知られています。
その後1706年に四ノ宮村郷士・四宮家当主・善兵衛の遺言により、その氏寺である徳林庵に遷され現在に至っており、このことから「四ノ宮地蔵」とも呼ばれています。
そしてこの6体の地蔵菩薩を巡拝する「六地蔵めぐり(京洛六地蔵巡り)」は京都の夏を代表する伝統行事の一つとして知られいて、毎年8月22・23日の地蔵盆に行われ、多くの参拝客で賑わいます。
「六地蔵めぐり」では各寺に異なる6色の御幡(お札)が用意されており、このお札を6枚集めて持ち帰り玄関に吊るすと、一年の厄病退散、家内安全の護符となるといわれています。
さらに初盆には水塔婆供養をし、3年間巡拝すれば六道の苦を免れることができるとも伝えられています。
札所は下記のとおり
東海道 山科地蔵(徳林庵)
奈良街道 伏見地蔵(大善寺)
大阪街道 鳥羽地蔵(浄禅寺)
山陰街道 桂地蔵(地蔵寺)
周山街道 常盤地蔵(源光寺)
鞍馬口街道 鞍馬口地蔵(上善寺)
この点、山科地蔵は第6番札所で、当日の京阪四ノ宮駅前からJR山科駅前までの旧東海道には、多くの夜店も出て参拝客や地元の人々で賑わいます。
この他にも前述の人康親王の由緒からこの地は盲目の「琵琶法師の聖地」とされ、「目の神さん」「ひとやすさん」「さねやすさん」とも呼ばれているほか、堂の背後には人康親王を祀る室町期の蝉丸塔や、鎌倉期の茶所の4体石仏、荷馬の井戸、飛脚の釜などがあります。