京都市伏見区羽束師志水町、鴨川と桂川の合流点の西、京都府運転免許試験場から府道79号を直線で約600mほど北へ進んだ西羽束師川に沿いに鎮座する羽束師を代表する神社で、正式には「羽束師坐高産日神社(はづかしにますたかみむすひじんじゃ)」といいます。
主祭神として共に創造神であり、古くから五穀豊穣の農耕神として信仰を集める高皇産霊神(たかみむすびのかみ)および神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀ります。
両神は日本神話における「天地開闢(てんちかいびゃく)」の際、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とともに高天原に現れて万物を造化したという造化の三神のうちの2柱で、「産霊(むすひ/むすび)」とは、天地・万物を生み、または成長させる神秘的で霊妙な力のことをいい、生産力向上や縁結び、安産などの御利益があるとされます。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が皇祖神とされる以前は、高皇産霊神が天皇家の祖神だったと考えられていた時期もあるといいますが、豊作による五穀豊穣を祈願する人々の間で農耕神として広く信仰を集め、皇室や朝廷にとって最も重要な神の一つとして宮中の神祇官(じんぎかん)西院に設けられた八神殿や新嘗祭(にいなめさい)の斎場に食物神として祀られていたといい、この祭神を祀る神社は「延喜式神名帳」記載の神社で数社、京都では羽束師神社のみだといいます。
現在は京都市伏見区に属していますが、一帯はかつては乙訓郡羽束郷と称していたように乙訓郡(長岡京市、向日市、大山崎町、伏見区の久我・羽束師・淀、南区の久世、西京区の大枝・大原野)の一部で、長岡京の都の東端に位置する場所でした。
また桂川や旧小畑川などの河川の合流点に位置する水上交通の要衝であった場所で、低湿地なものの農耕地として古くから栄えた地域で、御所へ野菜を供給する羽束師薗があった場所だともいいます。
また良質の赤土、粘土質の土壌が採取される地域であったことから、土器や瓦を製作する職業集団が居住していたと考えられ、平成の発掘調査によって長岡京の左京・四条四坊に当る旧址から、祈願の際に献上される土馬が発掘されており、784年(延暦3年)の長岡京の建造の際にも瓦等の製作に携わったと推測されています。
そして神社は元々は彼らの祖神を祀ったもので、土器を作る粘土を「はに」、粘土をこねることを「かす」といい、その職業集団と彼らが住む地を「泥部=泊橿部(はつかしべ)」などと称したことから、これが社名の由来となっているともいわれています。
文政年間(1818-29)の当社の神主・古川為猛による社伝「羽束師社舊記」によると、第21代・雄略天皇の477年(雄略天皇20年)の創建と伝わり、その後、飛鳥時代の第29代・欽明天皇の567年(欽明天皇28年)には桂川が氾濫して洪水になったにもかかわらず、当社が水につかることはなかったことから、その神威により帝より神封を封戸を下賜されたといいます。
そしてこの逸話により風水害除けの神としても信仰を集め、古くは遣隋使・遣唐使など渡航の際には風雨の災難除けのための参詣が行われたと伝えられています。
また665年(天智天皇4年)に勅命によって中臣鎌足(藤原鎌足)が再建したとも伝わっており、その後、文献上の初見は701年(大宝元年)の「続日本紀」四月三日条にある「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」との記録で、少なくとも大宝元年以前に遡る古社と考えられます。
784年(延暦3年)の長岡京遷都の際にも再建されたと記されており、平安遷都後の927年(延長5年)の「延喜式神名帳」では式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かるなど名実共に「式内第一」の社とされました。
また神名帳の他にも「延喜式」巻3の「臨時祭」祈雨神祭条に「羽束石社一座」とあり、祈雨神祭の85座に含まれ、雨乞いに験ある社として崇敬を受けていたと考えられています。
その後、中世から近世にかけては、羽束師とその周辺地域の「産土神」として崇敬を集めていたと考えられ、「都鄙祭事記」には、「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」と記されているように、羽束師に加えて久世の南の久我方面一帯までの広い氏子区域を有していたと推察されます。
江戸後期には「羽束師社旧記」の著者でもある古川為猛が私財を投じて人工水路の羽束師川を開削していますが、この水路により一帯の水害被害は激減し、桂川右岸の低湿地帯は耕作地に変わったといい、境内にはその功績を検証する「治水頌功之碑」も建てられています。
その後1873年(明治6年)に村社、1882年(明治15年)には郷社に列しています。
現在の神明造の本殿および割拝殿の拝殿は、ともに江戸後期の1850年(嘉永3年)に再建されたもの。
また境内の鎮守の森はかつて「羽束師の森」といわれて歌枕にもなったことでも知られています。
現在も境内にはクスノキの大木が遠目から見ても分かるように林立し、かつての鎮守の森の面影をわずかに伝えるとともに、地域のシンボルとして広く親まれています。
年中行事としては、5月巳日、現在は5月第2日曜の「羽束師祭」が有名で、還幸祭(おかえり)では菱川町、古川町、志水町、樋爪町の氏子区域を神輿が巡行し、町内は活気に包まれます。
その他にも1月に行われる近隣の神社21社からなる「乙訓鎮座神社巡り」の一社となっていることで有名です。
なお当社は901年(昌泰4年)、菅原道真が太宰府への左遷の際に参詣して「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 社といふらん」という歌を詠んだことでも知られていて、この由緒により境内の南側近くには境外摂社として「北向見返天満宮」が建立されています。