京都市南区久世上久世町、旧西国街道が西から南へと進路を変える地点の西側、現在は阪急洛西口駅またはJR桂川駅よりやや東に鎮座する神社。
元々は「綾戸宮」と「國中宮」のそれぞれが独立した神社でしたが、現在では左に綾戸宮、右に國中宮の二社が合祀されており、
「綾戸宮」は大綾津日神(まがつひのかみ)、大直日神(おおなおひのかみ)、神直日神(なおびのかみ)の3柱(綾戸大明神)
「國中宮」は素盞鳴神(すさのおみこと)
を御祭神としています。
社伝によれば、「綾戸社」は521年(継体天皇15年)に「大井社」として創建。
綾戸大明神として祀られている神々は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)やその子である素盞嗚命(すさのおのみこと)が黄泉(あの世)から戻り穢れを祓った際に生まれた神であり、平安時代には近くを流れていた大堰川(桂川)にて天皇の災禍を遷した人形(ひとがた)を流す「七瀬の祓(ななせのはらえ)」の儀式における穢れを祓う祓神として崇拝を受けたといいます。
その後平安中期の965年(天暦9年)に「綾戸社」に改称されていますが、平安時代当時に「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」に記載のある「山城國乙訓郡 茨田神社」あるいは「大井神社」の論社の一つと考えられており、また綾戸神社の社号の額は第70代・後冷泉天皇の御震筆と伝えられているなどの由緒を持つ神社です。
もう一方の「國中社」は、付近一帯がまだ湖水に覆われていた頃に素盞嗚尊が天から降って水を切り流して土地を開いて平野とし、その国の中心に自ら刻んだ愛馬(天幸駒)の頭の彫刻を、新羅に渡海する前に尊の形見として祀ったのがはじまりと伝わっていて、「延喜式神名帳」に記載のある「山城國乙訓郡 國中神社」の論社の一つであり、元々は蔵王の杜(現・蔵王堂光福寺)に社地があり、中世には「牛頭天王社」とも呼ばれていて、古くは久世郷全体の郷社であったと推定されている神社です。
その後、戦国時代に國中社が綾戸社の境内に遷されて以来「綾戸國中神社」と称するようになり、以降2つの社殿が並んでいたといいますが、1934年(昭和9年)の「室戸台風」により倒壊したため、1936年(昭和11年)に約20mほど北の地に1つの社殿として再建。
更に1964年(昭和39年)には境内地が東海道新幹線の建設予定地にかかったことから、社殿などをやや東に移転することとなり、現在に至っています。
この点、神社の御神体は勾玉・剣・鏡のいわゆる「三種の神器」がほとんどですが、綾戸國中神社は全国的にもごく稀な馬の首(素盞鳴尊の愛馬の頭)の彫り物である「駒形」を御神体としているといい、昔は競馬馬の馬主が馬を連れて必勝祈願に訪れ、勝利を収めた御礼に境内に灯篭を寄進したこともあったといわれています。
そして日本三大祭のひとつである「祗園祭」の神輿渡御において欠かせないものとして、綾戸國中神社の「久世駒形稚児」があり、毎年この神社の氏子から選ばれ、7月13日には八坂神社を訪問する「久世駒形稚児社参」が行われます。
この「駒形稚児」と祗園祭との関係は「國中社は素盞鳴尊の荒御魂なり。八坂郷祗園社は素盞鳴尊の和御魂なり。依って一体にして二神,二神にして一体で神秘の極みなり。」
また「御神幸の七月十七日に訓世の駒形稚児の到着なくば,御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若し此の駒故なくしてお滞りあるときは,必ず疫病流行し人々大いに悩む。」と古文書に記されているように、八坂神社の素盞嗚尊は和御魂(にぎみたま)で、綾戸國中神社の方は荒御魂(あらみたま)であるとされ、久世駒形稚児の荒御魂が八坂神社の和御魂の所へ赴き、両者が一体となりはじめて神輿を八坂神社から動かすことができるとされています。
そして國中社の御神体を模したものという駒形(木彫りの馬の首)を胸に掛けて奉持することで久世駒形稚児は神そのものとされ、祇園祭の7月17日の「神幸祭」および7月24日の「還幸祭」においては、馬に乗り素戔嗚尊(すさのおのみこと)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導の大役を務めます。
この際、八坂神社の境内においては通常は長刀鉾の稚児はもちろん、皇族であっても下馬しなければならない習わしですが、久世駒形稚児は神の依り代であることから、下馬せずに南楼門より境内に参入することができることで知られています。