京都府京都市右京区龍安寺、衣笠山などに続く住吉山の山麓、世界遺産・龍安寺から仁和寺へと向かう観光道路「きぬかけの路」の途中南側にある神社。
詳しい創建の経緯は不明ですが、一説によると古代より有力な豪族であった大伴氏が平安京遷都に伴って大和国から京の都に移った際、大伴氏の氏神・天押日命(あまのおしひのみこと)を移して祀ったのがはじまり。
「続日本後紀」には834年(承和元年)正月に「葛野郡上林郷地方一町を伴宿祢等に賜り氏神を祀るところとする」とあるのが当社のはじまりと考えられ、この点、823年(弘仁14年)に大伴親王が即位し第53代・淳和天皇となったことから、大伴氏はその諱を避け伴氏に改称していたため、神社も「伴氏神社」とされたといいます。
そしてこの伴氏神社は平安中期の927年(延喜5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳」においても、山城国葛野郡上林郷の項にその名が式内社として記されています。
大伴氏は天孫降臨の時に瓊々杵尊の先導を行ったとされる天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、武門の家として物部氏と共に皇居を警衛し禍乱を鎮圧するなどして功を立て、万葉歌人として知られる大伴安麻呂(おおとものやすまろ ?-714)、大伴旅人(おおとものたびと 665-731)、大伴家持(おおとものやかもち 718-85)などがその名を知られています。
しかし866年(貞観6年)に「応天門の変」で伴大納言と呼ばれ権勢を振るった伴善男(とものよしお 809-68)が放火の罪を着せられて失脚し伊豆に流されると、大伴氏は没落の一途をたどり、その後神社のあった地は左大臣・藤原実能(徳大寺実能)などを輩出した徳大寺家の領地となり、平安末期には徳大寺家により和歌の神として住吉神を祀る「住吉神社(すみよしじんじゃ)」が創建され、龍安寺・谷口地区の氏神として崇敬を集めたといいます。
そしてこの住吉神社は江戸中期の江戸幕府による最初の官撰地誌である並河永らにより編纂された「山城志」にてかつての伴氏神社に比定されていて、これを受けて昭和期に入ると再び大伴祖神を祀るべきという意見が強まったことから、1942年(昭和17年)8月21日に天忍日命と道臣命(みちのおみのみこと)が合祀されるとともに、社名も「住吉大伴神社(すみよしおおともじんじゃ)」と改められ現在に至っています。
現在の本殿は昭和初期のものですが住吉造で建てられているのが珍しく、その他にも境内社として小松尾神社(斎明神社を併祀)と十禅師社が祀られているほか、境内には「区民誇りの木」に選ばれているヒノキとスギの巨木があることでも有名です。
普段は静かな境内ですが、毎年10月の第3日曜日に開催される「神幸祭」では神輿・稚児・子供獅子・子供みこしが氏子区域を練り歩き大いに賑わうほか、宵宮および神幸祭当日には住吉大伴神社太鼓連による奉納太鼓も披露されます。