京都市東山区清閑寺歌ノ中山町、京都を代表する観光名所として知られる世界遺産・清水寺の子安塔そばの出入口から西南へと続く「歌の中山」と呼ばれる山道を600m、約15分ほど歩いた先、第79代・六條天皇および第80代・高倉天皇の御陵のそばにある寺院で、真言宗智山派の総本山である智積院の末寺。
平安初期の802年(延暦21年)、比叡山の紹継(しょうけい)が天台宗の寺院として開創し、その後、一條天皇(いちじょうてんのう)の時代(986-1011)に伊予守・佐伯公行(さえききんゆき)が中興し、996年(長徳2年)に勅願寺となっています。
そして平安後期には「平家物語」にある高倉天皇(たかくらてんのう 1161-1181)と小督局(こごうのつぼね 1157-?)の悲恋のエピソードで知られるようになります。
高倉天皇の中宮は平清盛(たいらのきよもり)の娘・平徳子(建礼門院)で、二人の間には平家滅亡の合戦となった「壇ノ浦の戦い」で入水したことで知られる安徳天皇が生まれていますが、小督局はそのような立場に置かれている高倉天皇の寵愛を受けて後宮となり、中宮よりも先に第一子として範子内親王(はんしないしんのう)を生んだたことから、中宮の父である平清盛の怒りに触れ、宮中を追われてこの寺で出家し尼となったと伝えられています。
天皇はそのことで深く心を痛めたといい、自分が死んだら局のいるこの寺に葬るよう遺言を残し、21歳の若さでこの世を去っており、その遺言どおりに境内背後の山には1176年(安元2年)に六條天皇、1181年(養和元年)には高倉天皇が葬られ、高倉天皇の御陵の傍らには天皇の死後、生涯にわたって菩提を弔ったといわれる小督局の墓もあり、また境内の本堂前庭にも小督局の供養塔と伝わる宝篋印塔が残されています。
その後1467年(応仁元年)の「応仁の乱」によって荒廃した後、慶長年間(1596-1614)に紀州根来寺の性盛(しょうせい)が再興し真言宗に改宗しました。
幕末の1858年(安政5年)には、清水寺成就院の勤皇僧・月照(げっしょう)と薩摩藩士・西郷隆盛が、境内の茶室・郭公亭(かっこうてい)で国事に関する謀議を密かに交わしていたと伝えられており、境内には。「大西郷月照王政復古謀議旧趾」の石標も建てられています。
かつては法華三昧堂(ほっけさんまいどう)や宝塔などが立ち並ぶ清水寺と並ぶほどの大寺院であったといいますが、現在は菅原道真が梅樹から彫ったという本尊・十一面千手観世音菩薩立像を安置する本堂を残すのみとなっています。
また境内は清水・音羽山の中腹に位置しており、本堂前庭の大きな石のある場所からはV字の形をした谷の奥に京都市街地が広がっており、扇を広げたような形で市内を一望でき、その石がちょうど扇の要の位置に当たることから「要石(かなめいし)」と呼ばれ、願いをかけると叶うともいわれています。
そして近くにある「清閑寺窯発祥の地」の駒札は清水焼などに代表される京都の伝統工芸品の一つである京焼(きょうやき)が、江戸初期(1615-24)に清閑寺の僧・宗伯(そうはく)が境内に窯を開いたのがはじまりであることを示すもので、京焼を大成した野々村仁清(ののむらにんせい ?-1694?)もその門下であったといいます。
この他にも清水寺からここまでの山道はかつては「歌の中山」と呼ばれ、桜や紅葉の美しさから数多くの歌が詠まれた場所だったといい、現在も紅葉の隠れた名所として知られています。