同志社大学 今出川キャンパス 京都観光

同志社大学 今出川キャンパス

同志社大学 今出川キャンパス

レンガ造の建物が印象的な大学開校以来のキャンパス

京都御苑の北、開校以来のキャンパス。1875年に新島襄が同志社英学校として開校。翌年現在地に移転し1920年大学に。 キリスト教プロテスタント系の流れを汲みレンガ造りが印象的な礼拝堂、クラーク記念館、彰栄館など5棟が重文。 2013年の大河ドラマ「八重の桜」は襄の妻・八重が主人公

同志社大学 今出川キャンパスとは?(基本データ)

名前
同志社大学 今出川キャンパス(どうししゃだいがく いまでがわきゃんぱす)
エリア
京都御所
ジャンル

大学 近代建築

建立・設立
1875年(明治8年)11月29日、同志社英学校創立
1876年(明治9年)、現在の今出川キャンパスのある旧薩摩藩邸跡に移転
1890年(明治23)年9月、ハリス理化学校が開校
1891(明治24)年9月、政法学校が開校
1904(明治37)年4月、政法学校・ハリス理化学校を廃止・統合し専門学校を設立、専門学校令によって「同志社専門学校」「同志社神学校」が認可される
1912年(大正11年)、両校を合併して「同志社大学」と改称
1920年(大正9年)、大学令によって関西地区で初めて旧制の大学として認可される
1948年(昭和23年)、同志社経済専門学校・同志社工業専門学校・同志社外事専門学校を合併し新制大学に移行
建立・設立
新島襄
徽章(校章)
同志社徽章(正三角形を3つ寄せたマークは国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの)
アクセス
  • 京都市営地下鉄烏丸線「今出川」駅下車 徒歩約1分
  • 京阪電車鴨東線「出町柳」駅下車 今出川通を西へ徒歩約15分
  • 叡山電鉄叡山本線「出町柳」駅下車 今出川通を西へ徒歩約15分
  • 京都市営バス「烏丸今出川」(51・59・急102・201・203号系統)下車 徒歩約1分
  • 京都バス「烏丸今出川」(45・51系統)下車 徒歩約1分
駐車場
付近に民間・市営の駐車場あり
拝観料
なし
お休み
特になし
拝観時間
見学自由
住所
〒602-8580
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町601
電話
075-251-3120(代表・広報課)
FAX
-
公式サイト
同志社大学
今出川校地 同志社大学
同志社大学 Twitter
同志社大学 Facebook
同志社大学 YouTube
学校法人同志社

同志社大学 今出川キャンパスの地図

同志社大学 今出川キャンパスのみどころ (Point in Check)

京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町、地下鉄今出川駅の北東に今出川キャンパスおよび本部を置く学校法人「同志社」の設置するキリスト教系の私立大学。通称は「同大」および「同志社」。設立者は明治六大教育家の一人で、キリスト教伝道者として知られる明治前期の教育家で宗教家の新島襄。
校章(徽章)の正三角形を3つ寄せたマークは、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもので、1893(明治26)年に詩人で同志社神学校教授であった湯浅半月(湯浅吉郎) 1858-1943)によって考案されたもので、スクール・カラーはPurple&White(紫と白)の2色。

この点、新島襄(にいじまじょう 1843-90)は、1843年(天保14年)1月14日に上野国安中藩(群馬県安中)の藩士・新島民治(にいじまたみじ 1807-87)と妻・新島とみ(にいじまとみ 1807-96)の長男として、江戸神田一ツ橋通小川町(現在の東京都千代田区一ツ橋二丁目)の安中藩邸内で誕生。

幼名は七五三太(しめた)といいましたが、これは新島襄の誕生前に新島家では既に4人の女の子が生まれており、5人目が生まれたときにその産声が男の子であったため、思わず祖父が「しめた!」と叫んだところから命名されたと伝わっています。

その後、成長すると経幹(つねもと)と名乗りますが、アメリカへ密航した際に船長のホレイス・S・テイラーから「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、それ以後はその呼称を名前として使い始め、1875年(明治8年)の帰国後は「譲」のちに「襄」の字を用い「新島襄」と称するようになります。

幼い頃から英才として知られ、1853年(嘉永6年)、10歳の時に安中藩の学問所に入り、添川簾斎(そえかわれんさい 1803-58)から漢学、次いで1856年(安政3年)、13歳の時に藩主・板倉勝明の命で藩中の子弟から選抜されると田島順輔から蘭学を学びますが、勝明の没後に弟・板倉勝殷(かつまさ)が後を継ぐとその祐筆補助役を命じられることとなります。

ところが1860年(万延元年)10月、17歳の時のこと、沖合に浮かぶオランダ船を見てその大きさに衝撃を受けたことで海外に出て外国に関する知識を身につけなければいけないと強く感じるようになり、ほどなく江戸築地にあった幕府の軍艦操練所に入って数学・航海術を学び、1862年(文久2年)に退所の後は甲賀源吾塾に入り江戸から備中玉島までの航海実習に参加。
更に1863年(文久3年)からは英学に転じ、漢訳のアメリカに関する書物や聖書を読んで欧米文明とその宗教に感銘、これを習得して日本にもたらすことを決意したといいます。

そして1864年(元治元年)3月、アメリカ合衆国への渡航を志して脱藩した新島は、北方交易に向かう「快風丸」に便乗して品川を出帆、4年前に開港され外国船の出入りが多かったという箱館へと向かいます。
箱館へと到着した新島は武田斐三郎の塾に入って英語を学ぶとともに、そのかたわらにロシア人司祭・ニコライの家に住み日本語教師となります。

そして同年6月14日、21歳にして国禁を犯す形で箱館からアメリカ船「ベルリン号」に乗って密出国に成功すると、中国の上海でアメリカ船「ワイルド・ローヴァー号」に乗り換え、翌1865年(慶応元年)7月ボストンに到着し無事渡米を果たします。

アメリカに到着した新島は会衆派信徒であった船主・アルフィアス・ハーディ(Alpheus Hardy 1815-87)夫妻の庇護を受けてフィリップス・アカデミーに入学し、1866年(慶応2年)12月には庵ドーバー神学校付属教会にて洗礼を受けキリスト教へと入信します。

翌1867年(慶応3年)6月にはフィリップス・アカデミーを卒業しますが、9月に今度はアマースト大学に入学して理学を学び、1870年(明治3年)に卒業して日本人として初めて学士号(理学士)を取得。次いでアンドバー神学校に進むと1874年(明治7年)7月に特別コースを卒業して神学も修めることができました。

そして神学校在学中の1871年(明治4年)7月に駐米少弁務使・森有礼の斡旋で明治政府から「米国留学」の留学免許状を取得した後、1872年(明治5年)から翌1873年(明治6年)9月にかけて訪米した岩倉具視を全権大使とする岩倉遣外使節団の文部理事官・田中不二麿の通訳となり、田中のヨーロッパ教育視察に同行して、欧米各国の教育制度などを視察し、調査報告書「理事功程」の作成にも携わっています。

既にキリスト教徒となっていた新島は、次第に「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本でもという夢を膨らませるようになり、1874年(明治7年)にボストンのマウント・バーノン教会で按手礼を受けて牧師となると、10月にアメリカン・ボード(米国海外伝道委員会)の年次大会で日本にキリスト教に基づく教精神主義教育を行なう学校の設立を訴え、大きな反響を得て約5000ドルの寄付金を得ることに成功します。
そして同年11月26日に横浜に到着した新島は、宣教師として10年ぶりとなる帰国を無事果たしたのでした。

翌1875年(明治8年)1月に大坂に到着した新島は当初は神戸か大阪での学校の設立を目指しましたが、府知事からの許可が得られなかったため、4月に京都に入ります。

京都は日本の古都であり、仏教の中心地であったことから、当然学校の設立反対の声も多かったといいますが、同年11月29日、京都府顧問・山本覚馬(1828-92)の助力を得ることで、同志社大学の前身となる「同志社英学校」を設立。
現在は「新島旧邸」の建っている上京区寺町丸太町上る松蔭町にあった高松保実邸を借りてその仮校舎とし、アメリカン・ボード派遣のアメリカ人宣教師ジェローム・D・デービス(Jerome Dean Davis 1838-1910)を担当教師とし、8名の生徒を受け入れ同志社での教育はスタート。翌1876年(明治9年)9月には相国寺門前の現在地に新校舎が建設されました。

この点「同志社」とは「志を同じくする者が創る結社」という意味で、その志とは「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本においてもという新島の志を意味しており、英語の校歌「Doshisha College Song」の冒頭の「One Purpose」も、一つの志、すなわち同じ志=同志を意味しているといいます。

ちなみにこの同志社設立と並行する形で、1876年(明治9年)の1月3日には山本覚馬を通じて知り合うこととなった覚馬の妹・山本八重(やまもとやえ 1845-1932)と結婚しています。

会津藩の砲術師範役・山本権八の娘として生まれた八重は、大変勇敢な女性として知られ、1868年(明治元年)の戊辰戦争に伴う会津戦争の際には藩主の面前で砲術の進講役を務め、男装して7連発銃をもって新政府軍に応戦したという逸話を持ち、「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた女傑でしたが、明治維新後の1871年(明治4年)に京都府顧問となっていた兄・覚馬を頼って京都へと上洛。

兄の推薦によって新英学校及女紅場(のちの京都府立京都第一高等女学校、現在の京都府立鴨沂高校)の教師となった後、1876年(明治9年)に京都御苑の現在の京都迎賓館の位置にあった旧柳原邸内のJ・D・デイヴィス邸に女子塾を開いて「同志社女子大学」の基礎を形作り、キリスト教の布教と子女の教育に尽力、新島襄の没後の日清・日露戦争では日本赤十字社の篤志看護婦としても活躍しており、2013年(平成25年)には女優・綾瀬はるか主演のNHK大河ドラマ「八重の桜」ではヒロインとして描かれたことで注目を集めました。

八重がプロテスタントの洗礼を受けてクリスチャンとなった後に二人はキリスト教式の結婚式を挙げたといい、これは京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式だったといわれています。

また同時期には熊本洋学校で学んだ後に同志社に転校してきた「熊本バンド」と呼ばれるキリスト教徒のグループ約30名を受け入れています。

熊本バンドは横浜バンドや札幌バンドと並んで日本のプロテスタントの三大源流の一つとされ、熊本洋学校の教官として招かれたアメリカ人教師L・L・ジェーンズの影響を受けてキリスト教に入信した生徒有志が、1876年(明治9年)1月30日にキリスト教によって祖国を救おうという固い決意の下に熊本郊外の花岡山において奉教趣意書に署名・誓約し結成されたグループです。

そのメンバーには新島襄の没後より1897年まで同志社社長兼校長を務めた後、日本最初のキリスト教青年会(YMCA)を結成するなどキリスト教界に尽くした小崎弘道(こざきひろみち 1856-1938)や、牧師となった後に政界や実業界でも活躍した金森通倫(かなもり-つうりん 1857-1945)、後に同志社大学総長となる海老名弾正(えびなだんじょう 1856-1937)、自由民権運動に参加した後に民友社を設立し「国民之友」「国民新聞」を発刊するなどジャーナリストとして活躍した徳富蘇峰(とくとみそほう 1863-1957)などなどがおり、卒業後に宗教界のみならず広く政財界や教育界、言論界、実業界などで活躍する人材を生み出すこととなります。

1877年(明治10年)4月には八重が前年に旧柳原邸内のJ・D・デイヴィス邸に開いた女子塾が、今出川寺町西入の旧二条関白邸跡の新校舎に移されて「同志社分校女紅場」と名称変更された後、同年9月には「同志社女学校」と改称され、後の「同志社女子大学」へとつながっていきます。

そして1880年(明治13年)のこと、新島襄を語る上では欠かせないエピソードの一つである「自責の杖事件(じせきのつえじけん)」が発生します。

当時の同志社は生徒不足を補うために年度途中でも面接を行い、合格した生徒を入学させていましたが、学力の差を考慮して入学月の違いから上級と下級の2組に分かれて授業を行っていました。

ところがどちらも少人数であったことから、学校側は2つの組を合併して授業を行うことを決定したのですが、これに上級組の生徒が反発し、新島襄が伝道活動で留守の間に抗議の意思を示すために集団で授業をボイコットするという事件を起こしてしまいます。

学校側の決定にも問題があったのは事実でしたが、無断欠席は明確な校則違反であったため、違反者を処罰すべきとの声が上がり、学校側も頭を抱えることになります。

そして4月13日の朝礼のこと、新島襄は集まった生徒たちの前で、今回の集団欠席の罪は生徒にも教員側にもないが、校則は守らねばならない。その責任はすべて校長である自分にあるとして、自らの掌を杖で何度も何度も激しく打ち続けました。
やがて掌には血がにじみ、杖は3つに折れてしまいがそれでも止めようとしない、新島襄の気迫に圧倒されすすり泣く生徒も現れ、ついには前列にいた生徒が新島襄の腕にしがみつき、泣きながら止めるように懇願したというエピソードで、同志社では現在でもこの事件のことを語り継いでいるのだといいます。

新島襄はその後も病をおして大学設立運動に奔走し、1883年(明治16年)にアメリカ滞在中から抱いていた大学設立の構想を「同志社大学校設立の旨意」として発表。
翌1884年(明治17年)4月から1885年(明治18年)12月にかけては休養と募金を兼ねて欧米を巡歴し、帰国後の1887年(明治20年)に仙台に東華学校、京都に同志社病院、京都看病婦学校を開き、1888年11月「同志社大学設立の旨意」を全国の主要新聞や雑誌に発表するなど、精力的に活動を続けます。

しかし長年の苦労や心労がたたり、大学設立運動の半ばの1890年(明治23年)1月23日に神奈川県大磯にて48歳で病没。
現在は東山区の若王子山上にある「同志社墓地」に妻の新島八重や八重の兄の山本覚馬、教え子の一人である徳富猪一郎や同志社関係の宣教師たちとともに眠っており、墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆により書かれたものだといいます。

新島襄の遺志はその教え子たちによって引き継がれ、1904年(明治37年)、専門学校令によって「同志社専門学校」「同志社神学校」が認可され、1912年(大正11年)に両校を合併して「同志社大学」と改称。

そして1920年(大正9年)に大学令によって旧制の大学として認可された後、戦後の1948年(昭和23年)に同志社経済専門学校・同志社工業専門学校・同志社外事専門学校を合併して新制大学に移行し、現在に至っています。

なお学部については1920年(大正9年)の大学認可時に文学部・法学部の2学部および大学院と予科を設置された後、1948年(昭和23年)の新制大学移行時に神学部・文学部・法学部・経済学部の4学部、そして翌1949年(昭和24年)に商学部・工学部の2学部が増設されています。

更にその後、2004年(平成16年)には政策学部が開設され、2005年(平成17年)には文学部を改組して社会学部・文化情報学部を増設。
2008年(平成20年)には生命医科学部・スポーツ健康科学部を新設し、工学部を理工学部に改称。
2009年(平成21年)に心理学部、2011年(平成23年)にグローバル・コミュニケーション学部、2013年(平成25年)にグローバル地域文化学部が開設されています。

同志社大学の校地は2つ、大学本部が置かれ「今出川」「室町」「新町」「烏丸」の4つのキャンパスがある京都市上京区の「今出川校地」および「京田辺」「多々羅」「学研都市」の3つのキャンパスがある京都府京田辺市の「京田辺校地」があり、その他にも大阪と東京にそれぞれサテライト・キャンパスが設置されています。

「今出川校地」は京都市の中心部、京都御所のある京都御苑の北側に位置し、御苑と北側にある金閣寺や銀閣寺を塔頭に持つ相国寺の境内に挟まれるようにキャンパスが広がります。

同志社大学の誕生の地として150年に及び歴史を有し、キャンパス内にある建物はその多くがレンガ造りで建造されて歴史的建造物として現在にまで伝えられていて、重要文化財となっている建物も5棟あり、人文・社会科学系の研究拠点として京都の歴史や文化を実感しながら学生生活を送ることができるキャンパスとなっています。

一方の「京田辺校地」は大阪府や奈良県にもほど近い京都府南部に位置し、緑豊かな自然に囲まれた79万m²という広大な敷地の中に精緻な現代建築の学舎が整備されるとともに、最新の施設や設備の設置される理系およびスポーツ系の研究拠点であり、体育会系の活動拠点にもなっているキャンパスです。

このうち「今出川キャンパス」は烏丸通と今出川通の交差する「烏丸今出川」交差点の北東側、北側を相国寺、南側を京都御苑に挟まれた一帯に整備されたキャンパスで、室町時代には第3代将軍・足利義満が開基した京都五山の1つである相国寺塔中「鹿苑院」の境内が、江戸末期には薩摩藩邸(相国寺二本松藩邸)が存在し、南側には京都御所を囲むようにして存在した公家屋敷が多数建てられていた場所でした。

この点、同志社の前身である「同志社英学校」が1875年(明治8年)11月29日に開校された当初は、現在の京都市上京区寺町丸太町上ルの位置にあった高松保実の屋敷の一角を借り、教室兼寄宿舎として利用していたといい、現在この地は「新島襄旧邸」として「同志社発祥の地」となっています。

一方、薩摩藩邸の跡地だった場所は明治維新の混乱の中で元会津藩士で京都府顧問を務めていた新島八重の兄・山本覚馬が取得していましたが、翌1876年(明治9年)に新島襄がその跡地を売買譲渡によって受け継ぐこととなり、以後は同志社英学校、後の同志社大学の校地として整備が進められていきます。

当初は木造2階建ての校舎兼寄宿舎が2棟と食堂棟があるのみでしたが、学生数の急増を受けて教学施設の充実が図られることとなり、1884年(明治17年)9月に同志社で最も古い教室棟である「彰栄館」が竣工。教育機関としてふさわしく、かつ教育理念であるキリスト教主義を可視化するのにふさわしい建物として同志社最初のレンガ建築で建造されました。

これを皮切りに1886年(明治19年)6月には「礼拝堂(チャペル)」、1887年(明治20年)11月には「書籍館(現・有終館)」、1890年(明治23年)9月には工学部の淵源である「ハリス理化学校(現・ハリス理化学館)」、そして1894年(明治27年)1月には「クラーク神学館(現・クラーク記念館)」と、レンガ造の建築物が次々と建造されていき、明治期に建てられたこれら5棟のレンガ建築は現在も講義・礼拝・学校法人事務室などとして使用され現存しており、歴史的建造物として国の指定する重要文化財となっています。

その後1912年(明治45年)に専門学校令によって認可された同志社大学が開校し、その8年後の1920年(大正9年)に大学令によって認可されると、新たに整備が必要となった高等教育に適した教学施設が新たに増設されることとなり、1916年(大正5年)には大教室を備えた「致遠館」、そして1920年(大正9年)には2代目の「図書館(現・啓明館本館)」が数多くのレンガ建築物を手がけたことで知られるW・M・ヴォーリズ設計事務所の設計により建造され、その後同事務所は1932年(昭和7年)に建造された「アーモスト館」の設計も手がけています。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災以降はレンガ造から鉄筋コンクリート造が主流となったことから、以後は鉄筋コンクリート造のものが多く見られるようになりますが、キャンパス内に連なる美しいレンガ造の建物群との調和を配慮して煉瓦タイルを貼られるなどの工夫が施されており、レンガ造りの建物が数多く並ぶ京都でも有数の歴史的景観が形成されたキャンパスとなっています。

文化財としては先に説明した明治期建築の5棟の国指定重要文化財のほか、啓明館の本館と西館およびアーモスト館、そして京都市役所の本館や京都大学の時計台なども手がけ「関西建築界の父」とも言われた建築家・武田五一(たけだごいち 1872-1938)の手による同志社女子大学の「栄光館」および「ジェームズ館」の5棟が国の登録有形文化財に、更に同志社発祥の地に残る「新島旧邸」が京都市指定有形文化財となっています。

また今出川校地には「今出川キャンパス」の他にも、京都市から譲り受けた産業技術研究所繊維技術センターの跡地に2012年10月に開校した「烏丸キャンパス」や、幕末まで五摂家の一つとして知られる公家の近衛家の邸宅があり、日本電池株式会社(現・株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション)の跡地に整備され、サークルの活動拠点としても活用されている「新町キャンパス」、更には室町幕府の足利将軍家の邸宅「花の御所」が存在した敷地の一部にあたり、今出川キャンパスと新町キャンパスの間に位置する「室町キャンパス」がそれぞれが近接する形で設置されていて、いずれの建物も明治時代の洋風建築を思わせるレンガ造の外観で統一され、付近一帯の歴史的にも重要な景観の役割を果たしています。

行事としては同志社大学の学園祭は今出川キャンパスで行われる「同志社EVE」と京田辺キャンパスで行われる「同志社京田辺祭」があり、どちらの学園祭も地域社会に開かれる形で開催されているほか、毎年冬にはクリスマスイベントとしてクリスマス・イルミネーションが京都の冬の風物詩の一つとして広く親しまれていて、初日には「クリスマス・イルミネーション点灯式」が開催され、聖歌隊の讃美歌の合唱がクリスマスムードをより一層盛り上げてくれます。

同志社大学 今出川キャンパスの施設案内

 

今出川キャンパス(同志社大学)

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    同志社前バス停

     

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    今出川御門交差点

     

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    正門

     

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    門衛所

     

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    クスノキ

     

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    良心碑

    今出川キャンパスの正門を入ったところにある記念碑で同志社教育のシンボル的存在
    1940年(昭和15年)11月29日、新島襄永眠50年を記念して建立
    碑に刻まれた「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」の言葉は、新島襄が晩年に同志社の一生徒に与えた手紙の一節からとられたもので、良心碑の文字はその自筆を拡大したもの

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    相国寺参道

     

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    アーモスト館

    1932年(昭和7年)3月竣工のレンガ造の建物で、設計はW・M・ヴォーリーズ設計事務所
    1921年(大正10年)に創立100周年を迎えたアーモスト大学は同志社に卒業生を送り出すプログラム「アーモスト・同志社プログラム」を開設
    その第1回学生代表であったS・B・ニコルズの母親やアーモスト大学の卒業生からの寄付により建造された
    1962年(昭和37年)にゲストハウス、1979年(昭和54年)に無賓主庵が寄贈されるなど併設施設も充実しており、現在は主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用されている
    2005年(平成17年)6月に国の登録有形文化財

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    ゲストハウス

     

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    光塩館(こうえんかん)

    1976年(昭和51年)9月竣工
    館名は新約聖書のマタイによる福音書第5章第13節から第16節に記述がある「地の塩、世の光」に由来
    法学部・法学研究科の研究室・共同研究室がある

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    啓明館(けいめいかん)

    同志社の2代目図書館で、1920年4月の大学令による同志社大学開校のシンボルとなる建物として、卒業生などの寄付により1915年9月に書庫棟(西館)が、翌1920年3月に卒業生・山本唯三郎からの寄付により本館が竣工
    設計はW・M・ヴォーリーズ設計事務所
    後の1957年(昭和32年)に新書庫棟(東館)が増築
    3代目図書館の建設後に現在の名前となり、現在は人文科学研究所、同志社社史資料センター、施設部が利用
    2007年(平成19年)7月に国の登録有形文化財

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    新島遺品庫

    W・M・ヴォーリーズ設計事務所が設計した建物の一つ
    新島襄や同志社関係の書簡、日記、ノート類、説教・演説草稿、公務記録・文書、軸物、絵画などの遺品約6,000点を収蔵する

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    東門

     

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    駐輪場

     

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    待辰館(たいしんかん)

    名前は旧約聖書の詩篇第130篇第6節「わがたましひは衛士があしたを待つにまさり誠にゑじが旦をまつにまさりて主をまてり」に由来

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    神学館(しんがくかん)

    1963年(昭和38年)7月竣工
    神学部・神学研究科の研究室・共同研究室がある同志社神学教育の拠点
    3階の礼拝堂の入口壁面にはヘブライ語で旧約聖書の創世記第1章第1節から第5節が大きく刻まれるほか、正面の壁を細く縦に彩るステンドグラスや石の聖餐台などが印象的
    1977年にはパイプオルガンも設置されている

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    致遠館(ちえんかん)

    1916年(大正5年)3月に教室として竣工の後、2021年に改築
    名前は徳富蘇峰が、諸葛孔明の言葉「寧静に非ずんば以って遠きを致むるなし」から命名され、建物入口には蘇峰による扁額が掲げられている
    現在は総務部や財務部などの事務棟として利用

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    有終館(ゆうしゅうかん)

    1887年(明治20年)11月竣工のレンガ造の建物で、設計はD・C・グリーン
    同志社最初の図書館で、当初は「書籍館」と呼ばれていたが、2代目図書館が建造された後に時の第8代同志社総長・海老名弾正により「有終館」と命名
    1979年(昭和54年)5月に国指定の重要文化財

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    弘風館(こうふうかん)

    1957年(昭和32年)3月に第1期工事が竣工の後、1959年(昭和34年)3月に第2期工事が完了し現在の姿に
    名前は現在の至誠館の位置にあった同名建物の名称を受け継いだもの
    教室棟、日本語・日本文化教育センターの拠点で、入学センター、広報課や校友課もある複合施設

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    明徳館(めいとくかん)

    学校教育法施行による1948年(昭和23年)設置の新制同志社大学のシンボルとなる建物として、1952年(昭和27年)3月に第1期工事が竣工した後、1954年(昭和29年)10月に第4期工事が完了し現在の姿に
    名前は第13代同志社総長・大塚節治によって命名され、中国の古典「大学」の三綱領の一つ「大学ノ道ハ明徳ヲ明ラカニスルニ在リ」に由来
    壁面にはヨハネによる福音書の一節"VERITAS LIBERABIT VOS"(真理は汝らに自由を得さすべし)が刻まれ、ワイルド・ローヴァー号のタブレットが飾られている
    教室、文学研究科の大学院学生共同研究室、食堂、ラウンジ等がある複合施設

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    徳照館(とくしょうかん)

    1982年12月竣工
    文学部・文学研究科の研究室
    名前は現在の神学館の位置にあった同名建物の名称を受け継いだもので、第8代同志社総長・海老名弾正が人才養成の目的に合するとして「徳星照臨」の四字より徳照の二字を抜き取って命名

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    図書館

    有終館、啓明館に次ぐ3代目の図書館として1973年(昭和48年)12月に竣工
    1975年(昭和50年)に第16回建築業協会賞を受賞

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    大学院門

    旧徳大寺家の表門

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    烏丸今出川バス停

     

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    烏丸今出川交差点

     

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    地下鉄今出川駅3番出口

     

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    薩摩藩邸跡

     

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    西門

     

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    門衛所

     

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    パーパスロード

     

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    クラーク記念館

    B・W・クラーク夫妻からの寄付によって1894年(明治27年)1月30日開館のレンガ造の建物で、設計はR・ゼール
    当初は「クラーク神学館」として神学の教育と研究に利用されたが、現在の神学館の完成に伴って「クラーク記念館」と改名
    本館にはキリスト教文化センターがあり、教室のほか、クラーク・チャペルも備わる
    エントランス上部の欄間に刻まれた「Byron-Stone Clarke Memorial Hall」の文字はクラーク夫妻の夭折した息子を讃えるもの
    1979年(昭和54年)5月に国指定の重要文化財

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    寒梅軒(かんばいけん)

    江戸末期に二條斉敬(にじょうなりゆき 1816-78)が関白となったのを祝して叔父であった水戸烈公・徳川斉昭(とくがわなりあき 1800-60)が今出川通東入に殿舎を新築した際に廊下の端に建てられた茶室
    幕末の動乱の際には会津の松平容保や一橋慶喜などの徳川方要人の密議の場となったと伝わる
    1954年(昭和29年)に同志社女子大増築のため移転された際、裏千家14代・淡々斎宗匠が新島の漢詩より「寒梅軒」と命名、現在は茶道部の道場となっている

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    至誠館(しせいかん)

    1967年(昭和42年)4月竣工
    商学部・商学研究科の研究室、教室等がある複合施設
    名前は第11代同志社総長・牧野虎次によって命名され、中国の古典「中庸」の「至誠は神の如し」「唯だ天下の至誠は、能く化することを為す」「至誠は息むことなし」に由来

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    扶桑館(ふそうかん)

    新理化学館の建築計画として1962年(昭和37年)3月に第1期工事が竣工の後、1966年3月(昭和41年)に第2期工事を終え現在の姿に
    商学部・商学研究科の共同研究室、国際センター、教室等がある複合施設

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    ハリス理化学館

    高等教育レベルの理科教育機関設立のために寄せられたJ・N・ハリスからの寄付によって1890年(明治23年)7月竣工のレンガ造の建物で、設計はA・N・ハンセル
    理工学部の前身である「ハリス理化学校」の校舎として建てられた後、現在は同志社の歴史と創立者・新島襄の今に息づく精神を貴重な資料によって紹介する「ハリス理化学館同志社ギャラリー」となっている
    1979年(昭和54年)5月に国指定の重要文化財

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    尹東柱詩碑

    尹東柱(ユン・ドンジュ)はコリアのクリスチャン詩人
    同志社大学文学部に在学中の1943年7月14日、ハングルで詩を書いていたことを理由に独立運動の疑いで逮捕され、治安維持法違反で懲役刑を宣告の後、福岡刑務所に投獄され、1945年2月16日に獄死した
    詩碑は没後50周年の記念日であった1995年(平成7年)2月16日に同志社校友会コリアクラブにより建立されたもの

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    鄭芝溶詩碑

    鄭芝溶(チョン・ジヨン 1902-50?)は大韓民国忠清北道沃川に生まれ、ソウルの徽文高普を経て、1923年(大正12年)に同志社大学予科に入学し、英文学を学ぶかたわら多くの詩を発表
    1929年(昭和4年)に同志社大学英文科を卒業後は徽文高普の英語教師を勤めながら詩人として活躍し、1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発後に行方不明に
    勧告現代詩の確立に大きな役割を果たすとともに、優れた詩人を文壇に送り出し「韓国現代詩の父」と評価されており、詩碑は沃川郡、沃川文化院、鄭芝溶記念事業会によって母校に建立されたもので、京都を詠った代表作「鴨川」が刻まれているという

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    礼拝堂(チャペル)

    1886年(明治19年)6月竣工のプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物で、設計はD・C・グリーン
    正面中央に円形のバラ窓、左右にアーチ窓が設けられ、その前の屋根と尖りアーチの入口がゴシック建築の特徴をよく表している
    1963年(昭和38年)7月に国指定の重要文化財

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    サンクタスコート

    西門を入って北側、以前新彰栄館のあった場所に広がる、彰栄館・同志社礼拝堂・良心館に囲まれた広場
    新たな学生たちの憩いの場

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    ヒマラヤスギ

    サンクタスコートの中央に立ち、2014年からはクリスマス・イルミネーションの役割を担っている

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    彰栄館(しょうえいかん)

    アメリカン・ボードの寄付によって、1884年(明治17年)に竣工された同志社最初のレンガ造の建物で、設計はD・C・グリーン
    同志社で最も古い教室棟で、レンガ造の洋風な外観に対して、内部の間仕切壁や小屋組などの構造形式は純和風になっているのが特徴
    塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねていて、毎朝の礼拝を告げる鐘の音は明治以来、同志社中学校が岩倉キャンパスに移転するまで、司鐘生と呼ばれる中学校の生徒が担当していたという
    1979年(昭和54年)5月に国指定の重要文化財

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    真義館(しんぎかん)

    2013年(平成25年)3月竣工の会議棟
    名前は旧約聖書の詩篇第45篇第5節「輝きを帯びて進め/真実と謙虚と正義を駆って」、新約聖書のエフェソの信徒への手紙第6章第14節「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け」に由来

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    地下鉄今出川駅1番出口

     

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    中央門

     

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    今出川プラザ今出川ウォーク

     

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    サンクンモール

    巨大な庇に覆われた地下広場

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    良心館(りょうしんかん)

    文系学部の教育を京都市内に統合移転させるために岩倉キャンパスに移転した同志社中学校の跡地に、2012年(平成24年)10月に竣工
    地下2階、地上5階、延床面積が40,000㎡を超える建物で、教室、経済学部・経済学研究科の研究室・共同研究室、ラウンジ、食堂、購買、今出川キャンパス教務センターなどが入る複合施設
    京都市営地下鉄今出川駅の改札口とは連絡通路で繋がっており、建物中央部の2階から3階にかけては日本の大学では最大級のラーニング・コモンズが設けられているのが特徴
    また4階の全フロアが小教室と演習室になっている
    名前は新島襄が「同志社大学設立の旨意」に記した「一国の良心とも謂ふべき人々を養成せん」「所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき」に由来
    同志社建学の精神を表す言葉として同志社の各学校には「良心碑」が建立されているように、同志社教育のシンボルとして新島の想いを今日に伝え続けてる大事な言葉が館名に用いられている

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    寧静館(ねいせいかん)

    1956年(昭和31年)竣工
    名前は徳富蘇峰により諸葛孔明の言葉「寧静に非ずんば以って遠きを到むるなし」から命名
    ゼミナール教室や情報教室のほか、メディア工房を配置

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    駐輪場

     

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    博遠館(はくえんかん)

    創立90周年事業であった工学教室および研究所の建設計画によって、当時の工学部の教育棟であった同工館を解体して建造
    1963年(昭和38年)7月に第1期工事が竣工の後、1964年(昭和39年)8月に第2期工事が完了し現在の姿に
    1994年(平成6年)の工学部・工学研究科および理工学研究所の京田辺校地への移転後は、社会科学系の大学院教育の拠点施設となった後、2013年(平成25年)4月からは、教室棟、研究開発推進機構、高等研究教育機構、法学部生の学習室等がある複合施設

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    駐車場

     

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    北門

     

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    門衛所

     

今出川キャンパス(同志社女子大学)

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    正門

    同志社女子大学」は同志社大学の今出川キャンパスの東側に位置するプロテスタント系の女子大学
    1876年(明治9年)10月、現在は京都御苑内の京都迎賓館のある場所にあった旧柳原邸のJ・D・デイヴィス邸に「女子塾」を開設したのがはじまり
    1877年(明治10年)4月、女子塾を二條邸跡へ移し「同志社分校女紅場」に名称変更
    1877年(明治10年)9月、「同志社女学校」と改称
    1930年(昭和5年)、「同志社女子専門学校」と改称
    1949年(昭和24年)、女子専門学校を廃止し「同志社女子大学」を設立

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    栄光館(えいこうかん)

    講堂・礼拝堂
    1932年(昭和7年)に米国ファウラー家の寄付によって建築された今出川キャンパスのシンボル的建物
    約1,600名収容できる講堂(ファウラーチャペル)にはカナダ・カサバン社製のパイプオルガンを設置
    毎日の礼拝をはじめ入学式、卒業式、創立記念行事、クリスマス礼拝などの行事も行われる
    国登録の重要文化財

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    図書館

    全国的にも珍しい地下式図書館
    地下2階、一部地上1階の構造となっており、屋上は一面芝生となっているのが特徴的

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    ジェームズ館

    米国ジェームズ家の援助により1914年(大正3年)竣工の学内最古の建物で、設計は有名な建築家・武田五一
    レンガ造り2階建てで2001年(平成13年)には保存的改修工事も行われ、卒業生ラウンジやエレベーター棟、教室が設置されている
    国登録の重要文化財

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    デントン館

    「同志社女子部の母」と呼ばれ、1888年(明治21年)の来日以来、大学の教育に貢献したアメリカの女性宣教師メリー・フローレンス・デントン(Mary Florence Denton 1857-1947)の功績を讃え、ジェームズ財団の援助にて建造された記念館
    研究室・実験室棟で、表象文化学部の研究室、共同研究室、学生ラウンジなどを設置

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    楽真館(らくしんかん)

    地上4階、地下1階構造の講義・実験・実習棟で、ラーニング・コモンズや、カフェ、200インチスクリーンを備えた大講義室、人間生活学科の関連施設等を設置
    このうちラーニング・コモンズには学生の創造的学習を促すグループワークエリア、イベントエリア、リサーチエリアなど備える

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    頌美館(しょうびかん)

    事務棟で、教務部、学生支援課、キャリア支援部の事務室、地下にはキャリア支援部資料室を設置

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    北門

     

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    新心館(しんしんかん)

    地上3階、地下1階構造の生活科学部実験・実習・研究室棟
    生活科学部食物栄養科学科の学びの中心となり、給食経営管理実習室など様々な実習室や研究室が整備される

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    心和館(しんわかん)

    2階建、地下1階構造の生活科学部研究室・実験室棟
    地階に食堂、キャンパスストア、地上階にラウンジ、課外活動関連施設、保健室、事務室等を設置

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    純正館(じゅんせいかん)

    南側を講義室、情報処理室、演習室などを設置する地上5階、地下1階建ての教室棟、北側をアリーナ、ホール、トレーニングルームなどを設置する半地下の多目的施設で構成する講義棟 5階にはアカデミックラウンジ、パソコンカフェ、屋上庭園も設置

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    東門

     

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    「二條家邸跡」の碑

    学校の敷地内が幕末まで五摂家の一つである二條家の邸宅であったことを示す石碑と説明版が設置されている
    同志社女子大学門前に、邸宅跡を示す石碑と同志社女子大学による「二條家邸跡」の説明版
    そしてやや東の生垣の中に、井戸と地下通路の遺構と「二條家邸(幕末期)検出の井戸」「二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路」の説明版がある

烏丸キャンパス

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    烏丸キャンパス入口

    烏丸通に面する今出川キャンパスの北側、相国寺境内の西側に位置
    「烏丸キャンパス」は文系学部の教育を京都市内に統合移転させるため、京都市から産業技術研究所繊維技術センターの跡地を譲り受けで整備され、2012年(平成24年)10月に開校
    大学院の総合政策科学研究科やグローバル・スタディーズ研究科、グローバル地域文化学部、国際教育インスティテュートといった同志社大学の「国際主義」を象徴するキャンパス

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    志高館(しこうかん)

    「志高館」は2012年10月の烏丸キャンパスの開校と同時に竣工された地下1階、地上3階建ての建物で、他の建物同様に外壁はレンガ張り
    名前は「同志社大学設立ヲ要スル主意」の「人生ノ志操ヲ高尚ニシ、精神ヲ錬磨シ智力ヲ発達シ思考ヲ奥蘊ナラシメ、又人ヲシテ己ノ本分ヲ知リ人類ヲ愛シ」に由来
    教室、研究室、オープン自習室、ラウンジのほか、海外TV放送等を用いる演習授業、収録やライブ配信が可能なサテライトスタジオとしても活用できるラーニング・スタジオを備える

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    サンクンガーデン

    志高館の建物内部に造成され、学生の憩いの空間となっている

室町キャンパス

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    地下鉄今出川駅2番出口

     

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    大聖寺(御寺御所)

     

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    寒梅館(かんばいかん)

    「室町キャンパス」は今出川キャンパスの烏丸通を挟んで西側、室町幕府の足利将軍家の邸宅「花の御所」が存在した敷地の一部にあたり、今出川キャンパスと新町キャンパスの間に位置する
    「寒梅館」は大聖寺の北側、室町第跡の敷地の北側にあたる場所に、1965年(昭和40年)に建てられた旧大学会館を全面リニューアルする形で2004年(平成16年)3月に竣工
    名前は新島の漢詩「真理似寒梅敢侵風雪開(真理は寒梅のごとし。あえて風雪を侵して開く)」に由来
    延床面積18,115平方メートルの7階建の建物で、ロースクール(司法研究科)とビジネススクール(ビジネス研究科)の2つの専門職大学院をはじめ、学生支援、キャリア形成支援、福利厚生などの学生サービス部門を設置
    その他にも一般開放している大小2つのホールやラウンジなどがあり、地域に開かれた交流の場として、映画上映やコンサート等を開催するほか、最上階にはフレンチレストランを備え、学生や教職員はもちろん、一般客の憩いの空間となっている

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    ハーディーホール

     

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    花の御所 石敷き遺構と説明板

    同志社大学寒梅館の北東側敷地内
    寒梅館の敷地内の上立売通に面する烏丸通から入ってすぐ
    同志社大学寒梅館の建設に伴って行われた2002年の発掘調査で、室町後期の石敷き遺構が発見された
    調査された同じ場所にガラスに覆われた形で保存されており、見学が可能で壁面には説明板も設置されている

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    駐輪場

     

新町キャンパス

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    正門

    今出川キャンパスのやや西方、今出川新町交差点より新町通を北へ上がった所にある「新町キャンパス」の入口
    「新町キャンパス」は幕末まで五摂家の一つとして知られる公家の近衛家の邸宅があり、日本電池株式会社(現・株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション)の跡地に整備されたキャンパス
    主に社会学部と政策学部の教育が展開されているほか、クラブ・サークルの部室や練習場などを備える学生会館があり、その活動拠点としても活用されている

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    門衛所

     

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    育真館(いくしんかん)

    正課授業および体育会やスポーツ系のサークル活動で利用している体育館
    バスケットボールやバレーボール、バトミントン、フットサルを行う東アリーナと、卓球や剣道、フェンシングを行う西アリーナを備える

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    尋真館(じんしんかん)

    1962年(昭和37年)2月に竣工された新町キャンパスの教室棟
    名前は第13代同志社総長・大塚節治により命名
    3階は自習室を備えた学習スペースとなっていて、隣接する臨光館への渡り廊下もあり大文字や寒梅館を臨むことができる
    その渡り廊下の外壁には新島襄の言葉「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」が刻まれている

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    臨光館(りんこうかん)

    社会学部と政策学部の教育が主に展開される新町キャンパスの教育環境を整備するため、旧渓水館を建替えて2005年(平成17年)9月に竣工
    教室や政策学部と社会学部の事務室、社会学研究科大学院共同研究室の他、パソコンオープン利用コーナーや食堂も設置されている

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    近衛家舊邸址(近衛邸跡)

    五摂家の一つ、近衛家の邸宅跡で、室町時代に摂関家の近衛家の本邸として用いられた
    この旧邸は「洛中洛外図屏風」にも描かれるほどの有名な糸桜があったことから「桜御所」と呼ばれていたという
    応仁の乱(1467)の際に焼失するも再建され、その後、天正年間(1573-92)に公家町整備に伴って京都御所の北西、現在の京都御苑の北西にあり桜の名所として知られる近衛邸址の付近に移ったという
    跡地にあたる新町キャンパス内には室町期に本邸があったことを示す「近衛家旧邸址」の石碑が建てられている

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    渓水館(けいすいかん)

    旧第一従規館を建替える形で、2004年(平成16年)3月に竣工
    名前は臨光館の建替えの際に取り壊した旧渓水館の名を引き継いでいるという
    社会学部と政策学部の教員個人研究室のほか、考古学資料室や実習室、学生と教員が語り合える教育ラウンジなどを設置

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    学生会館

    学生のクラブやサークルの部室であった「新町北別館」を建替える形で2002年(平成14年)9月に竣工され現在の名前に
    充実した課外活動を送ることができるよう部室のほかに練習場や会議室、シャワー室、カフェ、ラウンジ、購買なども備える

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    新町別館

    学生会館に隣接する音楽系と演劇系のクラブ、サークルの練習場
    舞台、客席が演出に応じ自由に設営可能な演劇用小ホールも備えているという

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    上京区総合庁舎前バス停

     

周辺

関連

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    同志社大学京田辺キャンパス

     

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    同志社大学 京町家キャンパス「江湖館(こうこかん)」

    中京区衣棚通丸太町下る玉植町235−2
    烏丸丸太町交差点より丸太町通を西へやや進んだ、新町通と室町通の間を南北に通る衣棚通沿いにある町家

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    同志社大学 大原農家キャンパス「農縁館」

    京都市左京区大原の三千院近くの農家が社会実験拠点となっており、農縁館と結の家(ゆいのいえ)で構成

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    同志社小学校・中学校・高等学校(岩倉校地)

    京都府京都市左京区岩倉大鷺町
    1896年(明治29年)11月29日に今出川キャンパス内に「同志社尋常中学校」開設
    以来、新制まで5年制の旧制中学校であったが、戦後の新制によって1947年(昭和22年)に「同志社中学校」となり、1948年(昭和23年)に「同志社高等学校」が岩倉大鷺町に設立
    2006年(平成18年)に「同志社小学校」が開校
    2010年(平成22年)9月、同志社大学の文系学部の今出川キャンパスへの移転のために同志社中学校が今出川校地から移転され、同志社の小中高はすべて岩倉キャンパス内に

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    同志社女子中学校・高等学校

    同志社女子大学内

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    同志社幼稚園

    京都市上京区寺町通石薬師下る染殿町
    御所東の梨木神社のやや北側に位置

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    新島襄旧邸(同志社創立の地)

    寺町丸太町上る松蔭町
    1875年(明治8年)11月29日に「同志社英学校」が設立された「同志社創立の地」で、同志社は創立当時は元々この地にあった高松保実邸を借りて仮校舎とし設立された
    翌1876年(明治9年)9月に相国寺門前の現在地に新校舎が建設され、現在は広大な今出川キャンパスとなっている
    その一方、当地には1878年(明治11年)9月7日にボストンの友人J・M・シアーズの寄付によって新島襄の私邸が建てられ、新烏丸頭町の仮寓より移り住むこととなった
    いわゆるコロニアルスタイルの洋風の外観を持つ和風寄棟住宅で、日本人のために建てられた和洋折衷の木造二階建て住宅として、また同志社創立者の旧居としての価値が認められ、1985年(昭和60年)に京都市指定有形文化財に
    現在は同志社によって管理され、同志社英学校がこの地に開校したことを記念し、建学の精神を体感する場として一般公開も行われている

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    同志社校友会 新島会館

    新島襄旧邸の南隣
    1985年(昭和60年)に同志社校友会創立百周年を記念して、校友のシンボリックメモリアルホールとして建設された校友会館
    大ホールや礼拝堂、ラウンジ、談話室、会議室などの設備を有する

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    同志社墓地

    左京区鹿ケ谷若王子山町、哲学の道の南側の始点である若王子神社から山道を徒歩約25分の所にある
    創立者の新島襄をはじめ、新島襄の妻・新島八重や八重の兄・山本覚馬のほか、新島襄の教え子でジャーナリストとして活躍した徳富猪一郎(徳富蘇峰)や同志社関係の宣教師たちなどが眠っている

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    新島襄旧宅

    群馬県安中市にある新島襄の旧宅
    新島襄は1843年(天保14年)に安中藩士の子として江戸・神田に生まれ、21歳で渡米しキリスト教徒となり、帰国後父母の住む安中へ帰郷し、キリスト教を伝道、その後、神戸から京都へ向かい、同志社英学校を設立した
    1963年(昭和38年)に安中市が新島襄の旧宅を移築、その遺品や関係書類および写真などを収集して展示する施設を造り1964年(昭和39年)に開館している

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    新島襄寄港記念碑

    1864年(元治元年)、新島襄は渡米のため洋式帆船「快風丸」で箱館に渡る前に、激しい潮流を避けるために青森県下北半島の下風呂温泉に寄港して2日間滞在、当地の様子を航海日記「函館紀行」に書きとめている
    青森県下北郡風間浦村の下風呂温泉にある海峡いさりび公園には「新島襄寄港記念碑」が建立されていて、碑前祭が行われるなど風間浦村と同志社は現在も交流が続いているという

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    新島襄海外渡航の地碑

    北海道函館市大町、かつての外国人居留地の岸壁で、函館港に浮かぶ「緑の島」に架かる橋「新島橋」の脇に位置
    新島襄は1864年(元治元年)6月14日夜、箱館大町築島の波止場から一隻の小舟で沖に出た後、湾内に停泊するアメリカ商船ベルリン号にたどり着き密入国に成功し、後に同志社英学校を創設する
    その岸壁に記念碑が建てられている

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    同志社創立者 新島襄ブロンズ像

    北海道函館市末広町、新島襄海外渡航の地碑より赤レンガ倉庫群方面へ歩いて2、3分の所にある
    ブロンズ像は箱館から密出国すべく小舟に乗り込んで外国船に向かう姿を再現したもので、作者は峯田敏郎、表題は「記念撮影 未来への始まり-海原-」
    2014年9月、新島襄の海外渡航150年を記念し、箱館ロータリークラブ創立80周年記念事業として、説明版および街路灯が設置されている

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    ワシントン大聖堂

    1935年に堂内に彫像が集合の彫像の一部として安置されている
    作者はボストンの彫刻家アンジェロ・ルアルディ

同志社大学 今出川キャンパスの主な年間行事・カレンダー

年中行事

11月下~12/25
クリスマス・イルミネーション

今出川キャンパス
初日に点灯式
[公式]

11/1~11/28
同志社EVE

創立記念日である11月29日を祝うため今出川キャンパスで行われる学園祭で、最後の3日間である11/26~11/28の期間は出店期間とされ、今出川キャンパス内にブースが立ち並び、教室ではライブや展示会などが行われる
[公式]

12月中
新町祭キャンドルナイト

新町キャンパス

月並行事

 
 

 

花ごよみ

 
桜(サクラ)

 

同志社大学 今出川キャンパスのレポート・旅行記

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同志社大学 今出川キャンパスの口コミ

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