京都市下京区堀川通五条下る西側、五条堀川を南へ下がった堀川通の西側のグリーンベルト内、京都東急ホテルそばにある井戸跡で「醒ヶ井(さめがい)」とも。
平安時代に源頼義(みなもとののりよし 988-1075)がこの地に築いた源氏の六条堀川館があり、その邸内の井戸であったいいます。
六条堀川館はその後も源義家(よしいえ)・為義(ためよし)・義朝(よしとも)の歴代の源氏の頭領が拠点としていたが、1159年(平治元年)の「平治の乱」で義朝が平清盛に敗れた際に平家によって焼き払われました。
その後、源義経(よしつね)が再興して静御前(しずかごぜん)と過ごしますが、1185年10月9日に頼朝に仕えた僧・土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん ?-1185)の夜討ちに遭い、撃退したもののその後義経が都落ちした後に館は焼き払われ、屋敷内の左女牛井跡だけが残ったといいます。
室町時代には茶人・村田珠光(むらたじゅこう 1423-1502)がこの付近に住み、8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ 1436-90)に献茶をした際にこの水を汲んだほか、戦国時代には武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-55)や千利休(せんのりきゅう 1522-91)、織田信長の弟・織田有楽斎(おだうらくさい 1548-1621)といった名だたる茶人たちに愛用されました。
江戸初期の1616年(元和2年)は織田有楽斎によって改修された際には、内径2尺4寸(約73cm)の円井戸であったといい、その後1788年(天明8年)の「天明の大火」で埋もれますが、1790年(寛政2年)には茶道薮内流の藪内家6世・竹陰紹智(1727-1800)によって補修されており、その碑が8世・竹猗紹智(1792-1869)によって建てられたといいます。
現在の京都御苑にある「縣井(あがたのい)」や梨木神社にある「染井(そめい)」とともに「京の三名水」の一つに数えられ、その中でも天下一の名水として有名でしたが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に空襲に備えた民家の強制疎開と堀川通の拡幅が行われた際に撤去され姿を消しました。
ちなみに付近一帯が「佐女牛井町」と呼ばれているのはこの井戸にちなむもので、また堀川通の一筋東側を走る「醒ヶ井通」や、近くにある「醒泉小学校(せいせんしょうがっこう)」の名もこの井戸に由来しているといいます。
1969年(昭和44年)にはその醒泉小学校の百周年記念事業の一つとして「佐女牛井之跡」と刻まれた石碑が建立され、現在に至っています。
そして堀川五条やや南の現在地に井戸はなくなりましたが、近年になってやや北へ上がった四条醒ヶ井にある和菓子屋「亀屋良長(かめやよしなが)」の店の前に「醒ヶ井」と名付けられた井戸が復活しています。
1962年(昭和37年)に阪急地下工事の影響でいったんは枯れていた井戸を、1991年(平成3年)に社屋を新築した際にを掘り直したところ、復活したといい、左女牛井にちなんで「醒ヶ井」と名付けられたといいます。
現在亀屋良長では醒ヶ井の地下水を地下80mからくみ上げて菓子の製造に利用しているといい、また井戸水は一般にも広く開放されており、気軽に味わってみることができるといいます。