京都府京田辺市天王高ケ峰、近鉄新田辺駅の南西、京田辺市の西端にある天王の地にある山城・河内・大和の3国が境を接する標高300mの高ヶ峰の山中に鎮座する神社。
主祭神である迦爾米雷王命(かにめいかづちのみこと)は第9代・開化天皇(かいかてんのう B.C.208-B.C.98)の曽孫で、神功皇后(じんぐうこうごう)の祖父にあたり、第11第・垂仁天皇(すいにんてんのう B.C.69-70)の時代にこの地を治め、その子孫は朱智姓を名乗ったといいます。
また古代にこの綴喜郡の地一帯に勢力のあった息長氏(おきながし)の祖神が祀られているともいいます。
古墳時代の第16代・仁徳天皇69年の381年、現在地より西方3町余り(約330m)の西峰山頂に社殿を建てて迦爾米雷王命および大筒城眞若王(おおつつきまわかのみこ)の2神を祀り「朱智天王」と号したのがはじまりで、535年(宣化天皇元年)に現在地に移転、一帯の地名「天王」はこれにちなんだものといいます。
その後、社伝によれば飛鳥時代の701年(大宝元年)に山城・河内・大和の三国の国境の山に白髪の老翁姿の神が出現して「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」を名乗ったのを受け、時の郡司・息長兼理が山頂に社殿を建てて祀ったという「大宝天王」を、平安遷都前年の793年(延暦12年)に遷座し朱智天王と同殿に合せ祀ったといい、更に平安初期には弘法大師空海が当社を訪れて、素箋鳴尊を牛頭天王(ごずてんのう)に置き換えたといい、以後近世まで一貫して「牛頭天王社」と呼称されています。
そして869年(貞観11年)には当社の祭神として祀られていた牛頭天王を京都・祇園八坂郷の感神院(八坂神社の前身)そばの荒町に遷座した後、876年にその地から更に感神院に遷座。そのため八坂神社の元となる神社といわれて「元八坂」とも呼ばれています。
この点、現在は行われていないといい詳細も定かではないといいますが、貞観時代から続いた行事として八坂神社の「祇園祭」の際に朱智神社の氏子が奉じた榊を天王区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行が開始されたと言い伝えられています。
明治維新に際して天王社より古名の「朱智神社」に復し、1873年(明治6年)には郷社とされています。
現在の本殿は江戸初期の1612年(慶長17年)に再建されたもので、一間社流造、屋根は桧皮葺、蟇股の唐獅子や牡丹など桃山時代らしい華やかな装飾が数多く施されており、京都府登録文化財に指定されているほか、本殿の牛頭天王像は頭上に牛頭を戴き忿怒の表情を持つ三面の顔を持ち、唐様装束の一木造の像で、藤原後期の作で類例も少なく京都府指定文化財となっています。
八坂神社と同様に厄災除け、病魔退散、無病息災のご利益で知られていて、毎年7月13日に「祇園宵宮まつり」、7月14日には「祇園祭」が開催され、厄除けのちまきも授与されるといいます。
また深い緑に覆われた山中に鎮座しており、1983年(昭和58年)4月15日に神社の森一帯が「朱智神社文化財環境保全地区」に指定されています。