京都府京田辺市大住池平、京都府南部に位置する京田辺市の北西、JR松井山手駅と大住駅のほぼ中央に鎮座する神社。
旧綴喜郡の中でももっとも古い神社の一つであると同時に式内大社の格式を持つ神社で、「隼人舞」の発祥地としても知られています。
祭神は天照大御神の弟で社名にもなっている月読尊(つきよみのみこと)のほか、その両親である伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)の3柱。
社伝によると、平安初期の809年(大同4年)に桓武天皇の第1皇子である第51代・平城天皇(へいぜいてんのう 774-824)が天皇の位を譲位の後、宮殿を平安京より平城京に遷そうとした際に造営使がその途中、大住山において霊光を拝し、この地に社殿を建立したのを創建とし、859年(貞観元年)8月に「月讀宮」と称すようになったといいます。
創建当初より朝廷から崇敬を集め、平安中期927年(延長5年)にまとめられた当時官社に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも掲載されている式内社であり、大社に位置づけられていました。
また鎌倉初期の1195年(建久6年)には鎌倉幕府を開いた源頼朝が鎌倉より上洛して神馬を献上しているほか、松井および河内交野郡招提を神領として寄進したと記されています。
そして本社が位置する大住地域の多くは平安末期から室町末期頃までは奈良興福寺の領地(荘園)であり、神宮寺として「法輪山福養寺」が明治の初め頃まで存在。
後にすべてが廃寺となっているものの同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊の六坊が存在していたといい、このうち境内に奥ノ坊の庭園の跡が残されているほか、現在の大住小学校の北側あたりが北ノ坊の旧跡であることが調査で確認されており、これらの点からも往事の社域はかなり広大な範囲であったことが伺い知れます。
更に幕末の1868年(慶応4年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」の兵乱の際には、戦火を避けるために八幡の石清水八幡宮に鎮座する八幡神が当座境内に一時的に遷座され、その際には御神宝が薬師堂に安置されたといい、現在薬師堂は現存していませんが、本殿のそばには当時を偲ばせる「薬師堂跡」の石標が建てられています。
鎌倉末期の1331年(元弘元年)9月には笠置山に遷った後醍醐天皇の下に大住の一族ならびに岡本弾正久織などが味方に馳せ参じたため当地は戦乱に巻き込まれて神殿が兵火にかかったのをはじめ、中世には度々兵乱に巻き込まれ、その都度社殿の焼失と再建を繰り返したといい、現在の本殿は明治期の1893年(明治26年)12月に帝室技芸委員であった名古屋の伊藤平左衛門の設計により建てられたもので、奈良春日大社を筆頭に奈良や大阪、京都府南部によく見られる一間社春日造の建築様式に銅板葺(もとは檜皮葺)の建物で、東面して立つ本殿を囲む玉垣の正面に鳥居が配置されている珍しい構造となっています。
行事としては毎月1日の「月次祭」のほか、11月下旬には「新嘗祭」があり、また「例祭」は10月15日ですが、その例祭前日の10月14日の宵宮の日に奉納される「大住隼人舞」がよく知られています。
この点、「隼人舞」は九州南部の大隅半島の隼人族(大隅隼人)の郷土の民俗芸能で、古事記や日本書紀の山幸彦の神話にその起源があり、岩戸神楽と共に日本民族芸能の二大源流ともいわれています。
隼人族はその多くが奈良時代に大住に移住し、宮中の儀式の警護や歌舞を務めたといわれていて、隼人舞は天皇即位に伴う大嘗祭の時などに朝廷で演じられたほか、月読神社へも奉納されて舞い伝えられてきたといい、神社周辺の地は「大住(おおすみ)」の名で呼ばれ、また当社は「隼人舞の発祥地」とされ、神社の入口には「隼人舞発祥之碑」の石碑が建てられています。
その後、隼人舞は一時は途絶えたものの、1971年(昭和46年)に隼人舞継承者であった日枝神社の宮司・牧山望(1900-91)の手によってを再現・復活され、地元を中心に隼人舞保存会も結成されるとともに、1975年(昭和50年)12月19日には京田辺市の前身の田辺町の無形文化財第1号として文化財指定がなされました。
現在も京田辺市指定無形民俗文化財となっており、10月14日の例祭の宵宮の日には地元の中学生たちが古代の衣装に身をまとって舞人となり、手に剣や盾を持ち、太鼓や龍笛の音に合わせて舞を舞います。