八瀬天満宮社
八瀬天満宮社とは?(基本データ)
- 名前
- 八瀬天満宮社(やせてんまんぐうしゃ)
- エリア
- 大原・八瀬・比叡山
- ジャンル
- 建立・設立
- 不詳(伝・10世紀)
- 創始者
- 伝・比叡山法性坊阿闍梨・尊意
- 祭神
- 菅原道真(すがわらのみちざね)
- ご利益
- 例祭
- 5/5(例祭(八瀬祭))
他に初湯式(2/25)、八瀬赦免地踊(10月体育の日の前日)などが知られる - 神紋・社紋
- 梅鉢紋
- アクセス
- 駐車場
- あり(無料)
- 拝観料
- 無料
- お休み
- 拝観時間
- 境内自由
- 住所
- 〒601-1252
京都府京都市左京区八瀬秋元町639 - 電話
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- FAX
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- 公式サイト
- 八瀬天満宮社 京都を彩る建物や庭園 京都市文化市民局
八瀬赦免地踊 公式ホームページ
京都市指定・登録文化財 無形民俗文化財(左京区) 京都市情報館
八瀬天満宮社の地図
八瀬天満宮社のみどころ (Point in Check)
京都市左京区八瀬秋元町、比叡山に連なる八瀬の御所谷山麓に鎮座する神社で、八瀬の地の産土神であるとともに祭神として菅原道真(すがわらのみちざね 845-903)を祀る天満宮の一社。
八瀬の地は京都市街地の北東部、比叡山の麓に位置し、古くは日本海に面する若狭国(福井県)小浜から京の都へと魚などを運んだ「鯖街道」に面する山間の里ですが、同時に雲母坂とともに古くから比叡山黒谷へと続く登山道「八瀬坂」の出発点としても有名な場所でした。
そしてこの地は菅原道真がまだ若かりし頃、勉学のため師である比叡山法性坊(ほうしょうぼう)の阿闍梨・尊意(そんい 866-940)のもとに通う際に休息した場所と伝わり、その道真が亡くなった後に尊意の勧請(かんじょう)により天満宮が建立されたのがはじまりと伝わっています。
ちなみに「八瀬」の地名は672年の「壬申の乱」の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が背中に負った矢傷をこの地で釜風呂を作って治したという伝承に基づくもので、そのため江戸時代まで「矢背(やせ)天満宮」とも呼ばれていたといわれています。
本殿は1795年(寛政7年)の大火で一度焼失した後、1844年(天保15年)に再建されたもので、社殿の背面扉の内側に祀られている十一面観音絵像は道真の本地仏、すなわち仏としての姿であるといいます。
境内にはその他に9つの摂社と舞楽殿、社務所などが配されていて、このうち最もよく知られているのが本殿南側にある秋元神社(あきもとじんじゃ)で、江戸中期の老中・秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも 1649-1714)を主祭神として祀っています。
この点、八瀬の地は古くから勤皇の志が高く、皇室との関係が深いことで有名で、平安時代より皇室の行幸や大葬行事の際には八瀬の人々がそのお供を勤めていたといい、その際の装束が童子風であったため「八瀬童子」と呼ばれ、現在に至るまで存在しているといいます。
そして南北朝時代に足利尊氏の軍勢に追われた後醍醐天皇が比叡山に逃れる際には駕興丁を承り、弓矢を持って道中を固めて無事に延暦寺までお供を勤めたことから、1336年(建武3年)2月24日に八瀬の村人一同に対し、「年貢以下諸課役」など一切免除の綸旨を賜り、その後も歴代の朝廷から同様の特権を得ていたといいます。
ところが江戸中期の1707年(宝永4年)に比叡山延暦寺と八瀬村との境界争いが勃発した際、村人は代々の綸旨を奉載して幕府に上訴したところ、時の幕府の老中であった秋元喬知は租税の免除という八瀬村の利権を認めて村民側に立って争いが解決されました。
このことに感謝した村人たちは、その報恩ために喬知の没後の1714年「秋元神社」として喬知の霊を祀り、更に以後毎年10月11日(現在は体育の日の前日)の秋元神社例祭の日には、八瀬郷土文化保存会により喬知の遺徳を偲んで「赦免地踊り(しゃめんちおどり)」が奉納されます。
別名「灯籠踊」ともいわれ、動物などの図柄を透かし彫りにして作られた切子型灯籠(きりこがたとうろう)を頭の上に乗せ女装をした8名の「燈篭着(とろぎ)」と呼ばれる少年が、音頭取りの太鼓に合わせて静かな踊りを奉納する洛北の奇祭で、踊りと踊りの間の俄狂言や切子燈籠に室町時代の風流踊りの面影を残しており、京都市登録無形民俗文化財に指定されています。
八瀬天満宮社の施設案内
境内
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朱塗りの鳥居と社号標
旧街道沿い
鳥居右手前に社号標
左手前に天満宮掲示板、駒札、八瀬の里の説明板
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復租紀恩碑
鳥居くぐってすぐ左
1336年(延元元年)に足利尊氏の軍勢を避けるために比叡山へと逃れようとする後醍醐天皇を守護して以来、八瀬の村民は租税を免除されてきた
明治以降に通常の課税が課されることになるが、岩倉具視などの奔走で実質的に租税免除が保持されることとなり、その経緯を記した碑
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歌碑
鳥居くぐってすぐ左
2004年(平成16年)に平成天皇の皇后・美智子殿下が大宮御所で赦免地踊りを観覧した後に詠まれた歌を刻んだ歌碑
「大君の 御幸祝ふを 八瀬童子踊りくれたり 月若き夜に」と刻まれている
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参道
鳥居から東の叡山に向けて伸びる道で、周辺には昔ながらの田園風景が広がる
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弁慶の背くらべ石
参道突き当たりの石段前の右手
原寸は6尺3寸2分(約192cm)で、弁慶が比叡山から運んで降りてきたものといわれている
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地蔵堂
参道突き当たりの石段前の左手
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駐車場入口
石段左側の坂道
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石段
参道の突き当りにあり本殿へと通じる
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分岐
1つ目の石段の途中、踊り場のようになっている部分
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手水鉢
分岐の右側
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社務所
分岐の左側奥
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石鳥居
2つ目の石段に続いて石鳥居をくぐり本殿前へ
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舞楽殿
石鳥居くぐってすぐ左
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臥牛像
石鳥居くぐってすぐ右
若干上空を見上げたような姿をしているのが特徴的
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石碑群
石鳥居くぐってすぐ右
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御神木の杉の木
石碑群の背後
左京区の区民誇りの木に選定
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本殿
1795年(寛政7年)の大火で焼失した後、1844年(天保15年)に再建
三間社切妻造向拝付,銅板葺きの建物で、本殿背面の扉の内側に道真の本地仏である十一面観音の絵図が納められているのが神社建築としては珍しい
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秋元神社
本殿右隣
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八幡大神
秋元神社の手前左
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幸ノ神
秋元神社の手前右
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山王神社
境内南側、石鳥居くぐって右の石段を上がった先
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吉野 後醍醐天皇遥拝所
幸ノ神の前
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十禅師大権現
境内南側、石鳥居くぐって右の石段を上がった先
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三社
本殿左手奥
右から若宮大明神、六所大権現、白井大明神を祀る
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菅公腰掛石
本殿北東、三社の左上
菅原道真が師である尊意を訪ねて八瀬坂から叡山に登る度に休憩したと伝わる
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白髭大明神・岩上神社・貴船大明神
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後醍醐天皇 御所谷碑
境内裏手
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後醍醐天皇御旧跡の碑
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周辺
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高野川
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国道367号
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かまぶろ旧跡
高野川を挟んで向かい、温泉旅館「ふるさと」の敷地内にある当時の貴族や文化人が使ったドーム型の蒸し風呂
1895年(明治28年)に復元作製された2基のうちの1基であるとされ、京都市指定登録文化財に登録
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八瀬 平八茶屋
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八瀬天満宮社の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 1/20
御弓式(御弓始め)
- 2/25
初湯式(御湯式)(はつゆしき(おゆのしき))
道真公の命日を偲んで執り行われる湯立神楽
10時頃より巫女による神楽の奉納の後、沸き立つ大釜の湯へ米・酒・塩を入れて御幣でかき混ぜた後、湯に浸した笹の葉を勢いよく振り撒いて清め、五穀豊穣や無病息災を祈願する- 5/5
八瀬祭(例祭)
9時より老分衆が参列し御神酒の儀
10時より駕輿丁の服装で一般の朝参りの後、神輿飾りや剣鉾の組立て
行列は2基の神輿のほか、剣鉾、稚児などで構成
神事および巫女神楽の奉納の後11時半出御、還御の出発が13時、14時頃に終了
前日には宵宮祭もあり- 9/16
御所谷参拝
現在も後醍醐天皇の命日には八瀬童子による参拝が行われているという
- 10月体育の日の前日
八瀬赦免地踊り(秋元神社例祭)
江戸中期の1707年(宝永4年)に比叡山延暦寺と八瀬村との境界争いが勃発した際、村人は代々の綸旨を奉載して幕府に上訴したところ、時の幕府の老中であった秋元喬知が租税の免除という八瀬村の利権を認め、争いは村民側に有利に解決された
このことに感謝した村人たちは、その報恩ため喬知の没後の1714年「秋元神社」として喬知の霊を祀るとともに、秋元神社例祭の日には喬知の遺徳を偲んで八瀬郷土文化保存会による「赦免地踊り(しゃめんちおどり)」が奉納される
別名「灯籠踊」ともいわれ、「燈篭着(とろぎ)」と呼ばれる動物などの図柄を透かし彫りにした赤い紙を白い地紙に貼りつけて作ったた高さ約70cmの切子型灯籠(きりこがたとうろう)を頭の上に乗せた8名の女装をした少年が、音頭取りの太鼓に合わせて静かな踊りを奉納
踊りと踊りの間の俄狂言や切子燈籠に室町時代の風流踊りの面影を残しており、京都市登録無形民俗文化財に指定
10時頃より秋元社例祭(御神楽奉納・御湯の式)
19時に祭りの一切を取り仕切る十人頭の合図により、八瀬の各町内の「花宿」に待機する燈籠着(4つの花宿から各2基)や10~11歳の女子児童で構成される踊り子、音頭取り衆、狂言などを行う新発意など参加者全員が村の中心地である門口(八瀬小学校付近)に集合
全委員が揃っているかを確認する儀式の後、行列を組んで矢負坂(やおいざか)を上り、秋元神社のある八瀬天満宮を目指して音頭を囃しながら練り歩く
神社に到着後は境内に作られた屋形の周りを燈籠着が音頭に合わせてゆっくりと回った後、舞台上で三番叟が演じられるのに続き踊り子たちによる手桶を持った「汐汲み踊り」や花籠をもった「花摘み踊り」、新発意による狂言などの芸能が奉納される
最後に灯籠を被っった灯籠着の補助役・警護が「狩場踊り」の音頭に合わせて屋形を周回し、三番の歌詞に入り「いざや帰らんわが宿へ」と早いリズムで歌われ始めると、そのまま宿元へと帰っていき祭りは終了となる- 11/11
御火焚祭