京都市左京区八瀬秋元町、比叡山に連なる八瀬の御所谷山麓に鎮座する神社で、八瀬の地の産土神であるとともに祭神として菅原道真(すがわらのみちざね 845-903)を祀る天満宮の一社。
八瀬の地は京都市街地の北東部、比叡山の麓に位置し、古くは日本海に面する若狭国(福井県)小浜から京の都へと魚などを運んだ「鯖街道」に面する山間の里ですが、同時に雲母坂とともに古くから比叡山黒谷へと続く登山道「八瀬坂」の出発点としても有名な場所でした。
そしてこの地は菅原道真がまだ若かりし頃、勉学のため師である比叡山法性坊(ほうしょうぼう)の阿闍梨・尊意(そんい 866-940)のもとに通う際に休息した場所と伝わり、その道真が亡くなった後に尊意の勧請(かんじょう)により天満宮が建立されたのがはじまりと伝わっています。
ちなみに「八瀬」の地名は672年の「壬申の乱」の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が背中に負った矢傷をこの地で釜風呂を作って治したという伝承に基づくもので、そのため江戸時代まで「矢背(やせ)天満宮」とも呼ばれていたといわれています。
本殿は1795年(寛政7年)の大火で一度焼失した後、1844年(天保15年)に再建されたもので、社殿の背面扉の内側に祀られている十一面観音絵像は道真の本地仏、すなわち仏としての姿であるといいます。
境内にはその他に9つの摂社と舞楽殿、社務所などが配されていて、このうち最もよく知られているのが本殿南側にある秋元神社(あきもとじんじゃ)で、江戸中期の老中・秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも 1649-1714)を主祭神として祀っています。
この点、八瀬の地は古くから勤皇の志が高く、皇室との関係が深いことで有名で、平安時代より皇室の行幸や大葬行事の際には八瀬の人々がそのお供を勤めていたといい、その際の装束が童子風であったため「八瀬童子」と呼ばれ、現在に至るまで存在しているといいます。
そして南北朝時代に足利尊氏の軍勢に追われた後醍醐天皇が比叡山に逃れる際には駕興丁を承り、弓矢を持って道中を固めて無事に延暦寺までお供を勤めたことから、1336年(建武3年)2月24日に八瀬の村人一同に対し、「年貢以下諸課役」など一切免除の綸旨を賜り、その後も歴代の朝廷から同様の特権を得ていたといいます。
ところが江戸中期の1707年(宝永4年)に比叡山延暦寺と八瀬村との境界争いが勃発した際、村人は代々の綸旨を奉載して幕府に上訴したところ、時の幕府の老中であった秋元喬知は租税の免除という八瀬村の利権を認めて村民側に立って争いが解決されました。
このことに感謝した村人たちは、その報恩ために喬知の没後の1714年「秋元神社」として喬知の霊を祀り、更に以後毎年10月11日(現在は体育の日の前日)の秋元神社例祭の日には、八瀬郷土文化保存会により喬知の遺徳を偲んで「赦免地踊り(しゃめんちおどり)」が奉納されます。
別名「灯籠踊」ともいわれ、動物などの図柄を透かし彫りにして作られた切子型灯籠(きりこがたとうろう)を頭の上に乗せ女装をした8名の「燈篭着(とろぎ)」と呼ばれる少年が、音頭取りの太鼓に合わせて静かな踊りを奉納する洛北の奇祭で、踊りと踊りの間の俄狂言や切子燈籠に室町時代の風流踊りの面影を残しており、京都市登録無形民俗文化財に指定されています。