京都市山科区御陵上御廟野町、地下鉄東西線御陵駅の近くにある「大化の改新」を行ったことで有名な中大兄皇子、後の第38代・天智天皇(てんぢてんのう 626-71)を埋葬する陵墓。
「天智天皇」は飛鳥時代の626年(推古天皇34年)、父である第34代・舒明天皇(じょめいてんのう 593-641)と母・宝皇女(たからのひめみこ 594-661)(のちの第35代・皇極・第37代・斉明天皇)の間に第2皇子として誕生。
名は葛城皇子(かずらきのおうじ)あるいは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)といい、この点、「中大兄(なかのおおえ)」とは、6世紀前期から7世紀中期にかけて有力な大王位継承資格者が持った称号「大兄(おおえ)」に、2番目という意味の「中」が付いて「2番目の大兄」を意味するものだといいます。
ちなみにこの時代の天皇は「大王(おおきみ)」と呼ばれていて、「天皇」の称号は7世紀後半に在位した第40代・天武天皇の頃に大王に代わって使われ始めたと考えられています。
その中大兄皇子といえば、藤原氏の祖・中臣鎌足(藤原鎌足)(なかとみのかまたり 614-69)と謀って有力豪族であった蘇我氏を滅ぼし、「大化の改新」を行なったことでよく知られています。
「日本書紀」によれば、蘇我氏は蘇我稲目(そがのいなめ 506-70)から蘇我馬子(そがのうまこ 551-626)、蘇我蝦夷(そがのえみし 587-645)、そして蘇我入鹿(そがのいるか 611?-45)まで、4代にわたって朝廷で最高位の官職である大臣(おおまえつきみ)の位に就くとともに、自分の娘を天皇の后としてその間に生まれた子を即位させることにより大王家の外戚の地位を得て権力を強固なものとし、その勢いは大王家をも凌ぐ状態でした。
とりわけ蝦夷の代、聖徳太子(厩戸王)(しょうとくたいし(うまやどのおう) 574-622)が没した後は大豪族である蘇我氏を抑える者がいなくなったことからその専横ぶりが目立ち始め、遂には蝦夷の子・入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおうえのおう)とその一族を滅ぼしてしまう事件が発生。
これが大王家を蔑ろにし自らそれにとって代わろうとするものだとして、645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の宮殿・飛鳥板蓋宮にて、天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺する「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれるクーデターを起こします。
翌日、入鹿の父・蘇我蝦夷も自害して蘇我本宗家は滅亡となり、皇極天皇の同母弟である第36代・孝徳天皇(こうとくてんのう 596-654)を即位させるとともに、自らはその皇太子となる形で新政府を樹立。
翌年1月に「大化改新の詔(しょう)」が発布され、以後は孝徳天皇とそれに続く母である第37代・斉明天皇(第35代・皇極天皇が重祚)の皇太子として「大化の改新」と呼ばれる様々な内政改革を断行し、豪族を中心とした政治から大王を中心とした政治への転換が図られていきます。ちなみにこの時に使われた「大化」は日本最初の元号(特定の年代に付けられる称号)とされています。
661年(斉明天皇7年)に斉明天皇が崩御した後も7年間、即位せずに皇太子のまま政務を執る称制を行い、その間緊迫する朝鮮半島情勢にも対応し、660年(斉明天皇6年)に唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を救援するために軍を派遣しますが、663年(天智天皇2年)に「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)」で大敗を喫すると朝鮮半島からは手を引き、以後は筑紫に防人を配置し、太宰府の防衛のため1kmに渡る水城(みずき)を築くなど国防を強化することとなります。
そして667年(天智天皇6年)、近江国大津の「近江大津宮」に都を遷すと、翌668年(天智天皇7年)に第38代天皇として即位。
治政の根幹は天皇制的中央集権の強化にあるとの考えから中国の制度や文物を積極的に移入し、藤原鎌足らに日本初の令(りょう)(体系的な法典)である「近江令」の編纂を命じ(671年施行)、670年(天智天皇9年)には日本最古の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成するなど、内政の整備に努めるとともに律令体制の基礎を築きました。
長子である大友皇子(おおとものおうじ 648-72)(明治時代に第39第・弘文天皇として諡号)を太政大臣に任じてその後継者とし、672年(天智天皇10年)12月3日に46歳で崩御。
しかし崩御の直後に「壬申の乱(じんしんのらん)」が起き、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)がクーデターを起こして大友皇子に勝利。第40代・天武天皇(てんむてんのう ?-686)として即位しその後を継ぐ形となりました。
天智天皇はその後、皇紀2600年を記念して1940年(昭和15年)に大津京(近江大津宮)を営んだゆかりの地である滋賀県大津市に創建された「近江神宮」に祭神として祀られています。
この点、天智天皇の治世中は漢詩文が盛んで、その影響を受け和歌も多く詠まれていて、「万葉集」には天智天皇の歌が4首収録されており、また「小倉百人一首」ではその天智天皇の歌がその巻頭を飾ることから、同神社は「かるたの聖地」とされ、競技かるたのチャンピオンを決める「名人位・クイーン位決定戦」が毎年1月に行われているほか、多くの競技かるたの大会が開催され、近年では競技かるたを題材とした映画「ちはやふる」の舞台となり、同作品のヒットもあり大いに注目を集めました。
そしてこの天智天皇の墓所は、宮内庁により治定されている現在の京都市山科区御陵、山科盆地の北端の緩やかな傾斜地にある「山科陵(やましなのみささぎ)」であり、考古学的には「御廟野古墳(ごびょうのこふん)」と呼ばれています。
この点「日本書紀」には天智天皇の陵墓について記述はありませんが、「万葉集」には飛鳥時代の女流歌人・額田王(ぬかたのおおきみ 生没年不詳)が天智天皇が亡くなったときに詠んだという「やすみしし 我ご大君の 畏き(かしこき)や 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ」という歌があり、「山科の鏡の山」に御陵を築いたとされる記述があります。
ちなみに額田王は大海人皇子(後の天武天皇)のを妻となって娘・十市皇女(とおちのひめみこ 653?-678)(後の大友皇子の妃)を産んだ後、その兄である中大兄皇子(天智天皇)の妃となり、この三角関係が兄弟の不仲と天智天皇没後の「壬申の乱」の原因となったともいわれている女性です。
また平安中期の927年(延長5年)に完成した法令集「延喜式」の中で朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述である「延喜諸陵式」に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」と山科陵を墓所とする旨の記述があり、山科には他に目立った墳墓がないことから、御廟野古墳が天智陵であることはほぼ間違いないと考えられていて、数ある古墳の中で奈良の明日香村の天武・持統天皇陵とともに被葬者が確実とされている数少ない天皇陵の一つです。
そして時期については、天智天皇の没後に御陵の土地が選定されたものの、直後に「壬申の乱」が起きたことから、それまでは未完成のまま「続日本紀」に天智陵修築の記述のある699年(文武3年)に山陵修営官が任命されて天皇陵として完成されたと考えられています。
また平安時代に延暦寺の学僧皇円(こうえん ?~1169)が編纂した初代・神武天皇から第73代・堀河天皇の1094年(寛治8年)までの時代についてまとめた私撰の歴史書「扶桑略記(ふそうりゃくき)」や鎌倉時代の「水鏡」によれば、天智天皇がある日大津宮から山階(山科)へ馬で狩猟へ出かけた際に行方不明となり、沓だけが残されていたためその場所に陵墓が築かれた」とされており、真相は不明なもののこの記述から天智天皇暗殺説を主張する学者もいるようです。
構造は上円下方墳で、下段の方形部は1辺が約70m、上円部は直径約40m、高さ約8mで、上円部は正しくは八角形の形をしているといい、陵墓までは三条通沿いの入口から北へまっすぐ400mほどの樹木に覆われた参道が続き、楓も見られ秋は紅葉が美しいほか、参道の途中には琵琶湖疏水の遊歩道への分岐もあることから散策の途中に立ち寄る人の姿も多く見られます。
また天智天皇は日本で最初の時計とされる水時計「漏刻(ろうこく)」を造って時刻制度を定めたと伝えられており、それにちなんで毎年6月10日は「時の記念日」とされ、天智天皇を祀る近江神宮では「時計博物館」が建てられているほか、同日に「漏刻祭」も開催されていますが、御陵にも天皇の徳を讃えようと入口左側に1938年(昭和13年)6月に京都時計商組合が建立した石造で垂直型の「日時計碑」が建てられています。