京都市西京区樫原杉原町、史跡公園として整備されている樫原廃寺跡の北隣に鎮座する神社。
「三ノ宮神社」「三宮神社」とも表記されるほか、西京区には当社の他に三ノ宮神社または三宮神社を称する神社が複数あることから、それと区別するために「樫原三ノ宮神社」と呼ばれることもあります。
近代社格では村社で、樫原地区の総鎮守として地域の人々より崇敬を集めています。
創祀・創建年代は文献がなく不詳ですが、その昔この地には樫の森があったことから「樫原(かたぎはら)」と呼ばれ、神社も柏原神社と呼ばれた時期もあったといいます。
祭神は、武勇の神である素盞嗚大神(すさのおのおおかみ)、酒の神である酒解大神(さかとけのおおかみ)、山の神である大山咋大神(おおやまぐいのおおかみ)の3柱。
この点、神社には有名な源頼光の鬼退治の伝説の話が伝わっているといいます。
言い伝えによれば、その昔洛西の大枝山(おおえやま)には京に入洛する旅人を襲って金品を略奪する鬼がいて、その首領の酒呑童子(しゅてんどうじ)は人々に恐れられていましたが、平安中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ 948-1021)は、この地の小さな祠に供えてあった御神酒を鬼に飲ませて、酔いつぶれたところを退治したといわれています。
この伝説は丹波の大江山にも伝えられていますが、今でも洛西の大枝塚原には鬼の首塚があるといいます。
そしてこの由緒から鬼を退治した「酒の神」、その武徳から「武勇の神」、大枝山から「山の神」の3柱を祀り社が造営されたといいます。
江戸時代には、5代将軍・徳川綱吉(1646-1709)が当社を崇敬し、徳川家の三つ葉葵の家紋を当社に許し、社殿を寄進したといいます。
また幕末の1853年(嘉永6年)には、攘夷祈願で孝明天皇が社殿の造営を図り、御所絵師を差し向けて、天皇の養子・華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう)からは菊華紋入りの提灯などを下賜されていることから、以来神紋は菊華紋と徳川葵を合わせて用いているといいます。
現在の本殿は1974年(昭和49年)の第60回神宮式年遷宮で、伊勢神宮から下賜されたもので、拝殿は1976年(昭和51年)に造営されました。
春季例祭は「樫原祭」、通称「たけのこまつり」とも呼ばれ毎年5月第1日曜日に行われており、神輿の装飾品は立派なもので、1600年代の慶長金を用いたものと伝えられています。
この他にも拝殿の天井にはだるま商店の作品である、「酒呑童子の鬼」「禁門の変」「素戔嗚尊」の3つ印象的な絵が描かれていることで有名なほか、境内にある手水鉢の隣には「樫原(かたぎはら)」の名前の元となった樫の古木もあります。
周辺情報としては神社前には国指定の史跡公園として整備されている「樫原廃寺跡」があるほか、江戸時代に宿場町として栄えた樫原の当時の面影を残す古い街並みが今も残されており、一帯が「西京樫原界わい景観整備地区」として町並保存地区の指定を受けています。
この他にも幕末の禁門の変の戦いで闘死した3柱の志士の墓もあり、合わせて巡るのもおすすめです。
また当社の境内に隣接する「三ノ宮天満宮」は元々は1000年あまり前に現在地を神域として菅原道真を祭神として勧請した社で、三ノ宮神社の境内社として産土鎮座の守護神、文教の祖神として地域の崇敬が厚かったことから、1972年(昭和47年)に新たに三宮天満宮として創建されたものです。
変り剣梅鉢を神紋とし、社務所は大正天皇の御大礼饗宴場建物を御下賜されたもの。
また境内には、京都白百合保育園や京都三の宮幼稚園があることから、鎮守の森は保育の森としても活用され、子供たちの元気な声がよく聞こえてきます。