京都市東山区東大路通東入上馬町、東山五条と東山七条の間、東大路通の馬町交差点から渋谷街道を東へ上がった先にある東山警察署渋谷交番のある交差点を左へ曲がり、細い路地を北へ坂道を下った所にある神社。
かつては、摂津国嶋下郡三島江村、現在の大阪府高槻市にある「三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)」に祀られている三島大明神の分霊を勧請し建てられたといわれています。
三島鴨神社は大山祇命(おおやまつみのみこと/おおやまづみのみこと)を祭神として祀る「三島」を社名とする神社の一つで、三島神社は伊予国大三島(現在の愛媛県今治市)の「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」と伊豆国(現在の静岡県三島市)の「三嶋大社(みしまたいしゃ)」を総本社として全国に400社余り存在しているといわれています。
三島神社の祭神は大山祇命は日本神話における国造りの神として知られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で、皇祖神にして日本国民の総氏神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の兄にあたる神様で、「やまつみ」とは「山を持ち坐(いま)す」を意味する言葉で山の神、農耕の神として知られています。
また「伊予国風土記」においては和多志大神(わたしのおおかみ)とされ、「わた」は海の古語であることから海の神様としても信仰されていたと考えられています。
「大山祇神社」は愛媛県今治市大三島町宮浦、愛媛県最北の瀬戸内海に浮かぶ「神の島」とも呼ばれる大三島の西岸に鎮座する神社で、全国にある大山祇神を祀る山祇神社(大山祇神社)の総本社です。
そして大山祇神は三島大明神とも称され、当社から勧請したと伝えられる三島神社は四国を中心に新潟県や北海道にまで広がっているといい、瀬戸内海の要所に位置することから海の神、海上交通の神として崇拝され、源氏や平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったことから、国宝や重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の大半が当社にあるといわれています。
もう一方の「三嶋大社」は伊豆国、現在の静岡県三島市に鎮座する神社で、創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、社名・神名の「三嶋」はこの地の地名の由来にもなっていて、平安中期の「延喜式神名帳」では「名神大社」に列格する由緒と格式を有しています。
中世以降は武士の崇敬、とりわけ伊豆に流された源頼朝が深く崇敬し源氏再興を祈願するなど武士・武将たちの崇敬を集め、また東海道に面し、伊豆地方の玄関口・下田街道の起点に位置し「伊豆国一宮」として厚く信仰されてきた神社です。
そして「三島鴨神社」は大阪府高槻市にある神社で、前述の「伊予国風土記」逸文では、仁徳天皇の時代に百済国(くだら)より渡来し、初め摂津国御島(みしま)、現在の大阪府高槻市に鎮座し(三島鴨神社)に座し、後に伊予国御島、現在の愛媛県今治市大三島町に鎮座する現在の大山祇神社に祀られたと記されており、日本で最初の三島神社(山祇神社)とされる神社だといわれています。
平安後期、後白河天皇の中宮(皇后)であった建春門院(平滋子)(けんしゅんもんいん(たいらのしげこ))が、皇子が生まれないのを憂い、子授けにご利益があると聞き摂津国嶋下郡三島江村の三嶋大明神(現在の三島鴨神社)に参拝に訪れて祈願したところ、数日後、夢の中に白衣の翁が現れ「汝に男子を授く必ず日嗣たる可し 依って我を帝都巽の方に祀る可し(あなたに男児が授かるでしょう、その代わりに私を京の巽(南東)の方角にまつりなさい)」と告げたといいます。
すると中宮は翁のお告げ通りに子を授かり、ほどなく高倉天皇を出産。これを喜んだ後白河天皇は1160年(永暦元年)、愛宕郡朝岡山小松ヶ谷の地に小松谷邸を持っていた平清盛の嫡男・平重盛に命じて社殿を造営し、三島大明神を勧請し京の巽の方角の守護神として祀ったのが当社のはじまりといいます。
それ以来皇室の尊崇は篤く、1179年(治承3年)5月には高倉天皇の中宮・建礼門院(平徳子)が安産を祈願して安徳天皇を出産しているほか、現代に入っても秋篠宮が1994年(平成6年)と2003年(平成15年)の二度参拝に訪れるなど、皇室とのつながりの深い神社となっています。
三嶋神社は、土火水(どかすい)の三つの御神徳(土は万物の母、火は万物の大気、水は万物の源であるという意)より、万物の命、すなわち生育・出生・放生を守護する神様として、安産、夫婦和合、子授けのほか、避妊、水子供養に至るまで導いてくれるとされています。
また「うなぎ神社」と通称されているように巳蛇(水蛇)、すなわち「鰻(うなぎ)」が祭神・大山祇大神の使い(眷属)として祀られていることでも知られていて、江戸時代に入るとうなぎは全国的に食べられるようになりますが、当時の氏子たちはの使いであるうなぎを食べなかった旨の記載が「禁食鰻文書」に見られるといいます。
そして古くから鰻は栄養豊かな食べ物として知られおり、産後の女性が食べると回復が早まり母乳の出も良いといわれていることから、以前は妊婦が安産祈願して鰻を断ち、無事に出産した後に鰻を放流してお礼参りとする習慣があったともいいます。
現在は近くの川がほぼ枯れてしまったこともあり、ウナギの絵が描かれた絵馬を奉納することでその代わりとしており、境内には数多くの絵馬が掛けられています。
更に現代においては鰻をはじめとする魚類を扱う業者からも信仰を集めるようになり、毎年10月26日にはうなぎ屋さん・養殖業者など全国のうなぎ業者が参列し、3匹のうなぎを境内の神池に放生し、うなぎ業者の商売繁盛を祈願する「鰻放生大祭(うなぎ供養)」も行われています。
その他の見どころとしては、境内にある「揺向石(ようこうせき)」という同じく縁結び・良縁・夫婦和合・家内安全の御神徳のある神石が鎮座していることでも知られています。
1174年(承安4年)、奥州へ行くか迷っていた牛若丸が当神社に参拝に訪れた際、ある晩、夢の中に白髪の翁が現れ、「汝志久しく可からず、早々に奥州に下るべし」とのご神託があり、夢から覚めて再び参拝し、翁が立っていたところを見ると、この石があったといいます。
以来その石は「揺向石」といわれ、妊婦が当社に参詣して男子の子授けを祈願し、この石に触れた手でお腹を撫でると、牛若丸のような立派な男子が授かると伝えられるようになりました。
社殿は兵火による焼失と再建を繰り返し、更に2000年(平成12年)には負債によって境内地や社殿を失ったため、一時祭神は同じ東山区内、JR・京阪の東福寺駅近くにある瀧尾神社(たきおじんじゃ)に移されましたが、2002年(平成14年)に土地所有者の好意で旧地であるマンションの敷地の一角に社殿が再建され、祭神が戻されています。
瀧尾神社の境内の方は現在は「祈願所」として「鰻放生大祭(うなぎ供養)」などの諸行事が行われるほか、うなぎの絵馬の奉納や祈願もできるといいます。
その他にも9月の第3日曜には剣鉾および子ども神輿3基のほか、2001年(平成13年)に約60年ぶりに復活した大神輿が約130名の担ぎ手たちとともに出御し、氏子区域を巡行する「神幸祭」が執り行われ、前日の宵宮では夜店も出店し賑わいます。