京都市東山区八坂上町、北の八坂神社と南の清水寺のほぼ中間に位置する臨済宗建仁寺派の寺院。
祇園東山のシンボル的存在である五重塔でよく知られていて、「八坂の塔(やさかのとう)」の通称で市民より親しまれています。
飛鳥時代の589年(崇峻天皇2年)、聖徳太子の創建とも伝えられ、少なくとも平安京遷都以前には創建されていたという京都でも有数の古い歴史を持つ寺院の一つです。
古くは「八坂寺」と称し、八坂郷を拠点としていた渡来系豪族の八坂造(やさかのみやつこ)が創建にかかわったといわれており、八坂氏の氏寺としての性格を有していたと考えられています。
平安中期の905年(延喜5年)から編集がはじまり927年(延長5年)に完成した平安期の法令集「延喜式(えんぎしき)」では盂蘭盆(うらぼん)供養料を給される七か寺の一つとされていて、官寺として栄えていたことが窺い知れます。
しかし創建当時の五重塔は1179年(治承3年)、清水衆徒と祇園神人(じにん)との合戦の兵火により焼失し、1191年(建久2年)、鎌倉幕府を開いた源頼朝の援助を受けて再建。
その後も幾度かの焼失と再建を繰り返し、現在の塔は室町時代の1440年(永享12年)に室町第6代将軍・足利義教により再建されたものです。
飛鳥時代の創建当初と同じ礎石の上に再建されており、高さ46mは東寺と興福寺に次ぐ高さを誇り、国の重要文化財にも指定されています。
鎌倉時代の1240年(仁治元年)には、中興の祖とされる建仁寺第8世・済翁証救(さいおうしょうきゅう ?-1260)が入寺し、禅宗寺院に改められるとともに、寺号も現在の「法観寺」となりました。
しかし「応仁の乱」をきっかけとして急速に衰退し、現在では有名な五重塔(重文)のほかは、江戸初期に門前の住人の寄進で再建された太子堂と薬師堂の2つの堂を残すのみとなっています。
本尊の金剛界五仏「五智如来(ごちにょらい)」は五重塔の初層に安置されており、塔の中央を貫く心柱の大日(だいにち如来)を中心として北に釈迦(しゃか)、西に阿弥陀(あみだ)、南に宝生(ほうしょう)、東に阿?(あしゅく)が配されています。
また法観寺の五重塔は不定期ではあるものの内部拝観も可能で、しかも初層だけでなく二層目の公開も行われており、二層目まで上がって窓から京都の町並みを眺望することができます。
風情のある町家と石畳の参道が続く「産寧坂伝統的建造物群保存地区」に位置し、境内の前を通る八坂通からの塔の眺望が最も美しく、テレビや雑誌などでもよく採り上げられています。
この点、八坂通からの眺望は2か所あって、1つ目は二年坂を上がった所から八坂通の下り坂をゆるやかに西へと下っていく坂道の途中からで、五重塔を見下ろす景色が楽しめます。
そしてもう一つが東大路通と八坂通の交差点より東へ続く細い道からで、この通りは塔を建てた聖徳太子が仏法興隆を夢見たことにちなんで「夢見坂」と呼ばれていて、五重塔を見上げる景色が楽しむことができ、どちらも甲乙つけがたい美しい眺めです。
また五重塔の眺望はどの季節でも素晴らしいものの、美しいピンク色の花が五重塔の周囲を彩る桜の季節や、雪景色に包まれた五重塔を眺めることができる冬の雪の降った後、更にライトアップの行われる3月の東山花灯路の時期などは、普段とはまた違った美しい五重塔に出会うことができます。
その他に境内には木曾義仲の首塚と伝わる石塔もあり、1月20日の命日にはその遺徳を偲ぶ「義仲忌」も執り行われています。
創建の歴史
寺伝によると、589年(崇峻天皇2年)(592年とも)に聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重塔を建てたのがはじまりで、その際に礎石には釈迦の骨である「仏舎利」が3粒を収められたといいいます。
境内より出土する瓦の様式から創建は7世紀を遡る平安京遷都以前から存在していたことは間違いなく、朝鮮半島系の渡来氏族で、古くから八坂郷を拠点としていた八坂造(やさかのみやつこ)が創建に関わり、八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力となっています。
寺号は当初は「八坂寺」と呼ばれ、文献上は837年(承和4年)の「続日本後紀」が初出。
また平安中期の905年(延喜5年)から編集がはじまり927年(延長5年)に完成した平安期の法令集「延喜式(えんぎしき)」では、東寺、西寺(さいじ)、佐比寺、野寺、出雲寺、聖神寺とともに大膳職から盂蘭盆(うらぼん)供養料を給される七か寺の一つに名前があり、四天王寺式の大伽藍を持つ官寺として栄えていたとみられています。
956年(天暦10年)には菅原道真の怨霊に悩む藤原時平への護持祈祷や、一条戻橋での父親の蘇生、平将門の乱を鎮めるなど数々の伝説を持つ天台密教の僧・浄蔵貴所(じょうぞうきしょ 891-964)が、勅命を受けて傾いた八坂の塔(五重塔)を法力で元に戻したという伝説があり、有名な「祇園祭」の山鉾の一つ「山伏山」の由来にもなっていることでも有名です。
五重塔の再建の歴史
五重塔は平安末期の1179年(治承3年)に清水衆徒と祇園神人(じにん)との争いで焼失しており、その後1191年(建久2年)(建久3年とも)に源頼朝の援助により再建。
その後1291年(正応4年)にも焼失しており、その時は1309年(延慶2年)に第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)の援助で第9代執権・北条貞時の側室・覚海円成(山内禅尼)(かくかいえんじょう)により再建されています。
そして現在の五重塔は1436年(永享8年)の焼失後、1440年(永享12年)に室町第6代将軍・足利義教の援助により再建されたもの。
創建時の塔跡に建てられており、古代寺院に特有だという心柱の礎石が残っていることでも知られています。
禅宗への改宗とその後
その間の1240年(仁治元年)に建仁寺8世・済翁証救(さいおうしょうく ?-1260)が入寺して中興し、真言宗から臨済宗建仁寺派に属する禅寺に改められました。
また1338年(暦応元年)に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、天龍寺開山で知られる僧・夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより全国に安国寺(あんこくじ)および利生塔(りしょうとう)を建てた際には、都の利生塔に五重塔を充て、塔を修復するとともに仏舎利を奉納しています。
この計画は後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うためのもので、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように国ごとに1寺1塔を建てるもので、寺は「安国寺」、塔は「利生塔」と称しました。
しかし「応仁の乱」をきっかけとして急速に衰退し、現在では有名な五重塔(重文)のほかは、江戸初期の1663年(寛文3年)に門前の住人の寄進で再建された太子堂と薬師堂の2つの堂を残すのみとなっています。