京都府京都市北区下白梅町、京都西陣の西、今出川通と西大路通の交差する「北野白梅町」交差点にある京福電鉄(嵐電)北野線の駅で、嵐電嵐山線との接続駅となっている帷子ノ辻駅とともに嵐電北野線の発着駅。
この点「北野」は当駅の位置する地域名を指し、平安京の大内裏の北側に広がる原野のことで、古くから神聖な場所と考えられ、現在は北野天満宮が鎮座していることで知られています。
一方「白梅町」は当駅のある北野地区の町の名前で、戦国時代に豊臣秀吉が茶人・千利休らを集めて北野の梅林で大茶会を開いたことから、それが地名として伝わったといわれています。
1925年(大正14年)11月3日、京都電燈が経営する嵐山電鉄北野線の北野~高雄口(現在の宇多野)間が開業した際には当駅は設置されず、当駅より今出川通を東へ約400mの北野天満宮前に北野駅が設置されました。
その後1936年(昭和11年)11月17日に、当駅の場所には京都市交通局の運営していた路面電車「京都市電(きょうとしでん)」西大路線の「白梅町駅」が先に開業します。
そもそも京都では明治維新による天皇の東京行幸に伴って衰退の一途を辿る京都を復興させるため、都市基盤の整備や勧業政策など様々な近代化政策が実施されましたが、その中でも琵琶湖疏水はその目玉ともいえるプロジェクトで、その水力を利用した水力発電で生み出される電力を元に京都で日本初の電車が開業することとなります。
1895年(明治28年)に民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業した後、1912年(明治45年)には京都市によって市営の路線が開設され、更に1918年(大正7年)には京都電気鉄道が京都市へと買収されて全面市営化されると、その後は戦後に至るまで路線が延長され、市民の足として大活躍しました。
しかしその後の自動車の普及に伴って乗客の減少が続き、経営が困難となったことで順次路線は廃止されていき、また1969年(昭和44年)には京都の中心部で十文字に交差する地下鉄路線とそれを補完するバス路線網の整備という京都市の新たな交通計画が決定したのを受け、1978年(昭和53年)9月30日には市電は全面廃止となりました。
京都市電の西大路線は北大路通りの西端の千本北大路から西大路通を南北に通り南の西大路九条まで設置された路線で、1928年(昭和3年)11月5日に西ノ京円町(後に円町と改称)~西大路四条間で開業したのを皮切りに整備が進められ、1943年(昭和18年)10月1日に全線が開業しています。
この西大路線の全線開業に際して、前述のように1936年(昭和11年)に開業していた京都市電西大路線「白梅町駅」と嵐電北野線との接続駅として当駅は開業。
開業時の駅名は京都市電と同じ「白梅町駅(はくばいちょうえき)」とされ、開業時の駅の設備は路面電車の停留場のような簡素な造りであったといいます。
その後1958年(昭和33年)9月16日に今度は京都市電の今出川線が全線開業のため今出川通西端の北野白梅町の交差点まで延伸されることとなり、嵐電の白梅町~北野間は京都市電へ路線を譲る形で休止となり、同年9月15日に廃止されます。
そしてこれを受けて嵐電北野線の終着的となった白梅町駅は、北野駅と白梅町駅の両駅名を合わせる形で現在の「北野白梅町駅」へと改称され、その翌月には新たな駅舎が設置されました。
こうして北野白梅町の交差点にはしばらくは嵐電の北野白梅町駅と京都市電の今出川線と西大路線の白梅町駅が存在するターミナル駅として存在していましたが、1976年(昭和51年)3月31日に京都市電の今出川線が廃止、また西大路線も1978年(昭和53年)9月30日の京都市電全線廃止の日まで営業を続けた後に廃止となり、いずれの路線も市バスへと転換され、電車の駅としては嵐電の北野白梅町駅のみが残る形で現在に至っています。
そしてその後、バスの停留所との一体化やバリアフリー化などを目的とした駅舎の改築工事が決まると、約60年間使用され老朽化した駅舎も撤去されることとなり、2019年(令和元年)11月に開始された工事は2020年(令和2年)3月20日に完了し、新駅舎の全面供用と併設されたバス停への京都市営バスの営業がスタートし、とりわけ西大路通を北へ上がった所にある金閣寺方面へのアクセスが便利になっています。
北野白梅町の交差点は京都の主要道路である今出川通と西大路通が接続する場所にあることから交通量の多い場所で、周辺スポットとしては駅の南隣にイズミヤ白梅町店があるほか、東へ500mの所には学問の神様・菅原道真を祀る有名な北野天満宮と京都五花街の一つである上七軒、桜の名所として有名な平野神社などがあり、更に西大路通を北へ進めば安産の神様であるわら天神や世界遺産・金閣寺(鹿苑寺)なども徒歩約20分の範囲にあります。